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第8話:青いネオン

鳴神大迷宮、第十五層。


 ここはEランク探索者における単独推奨深度の限界であり、同時に五層ごとに設置されている『中継帰還ゲート』が存在する重要なチェックポイントでもある。


 このゲートの認証さえ済ませれば、次回からは利用料を払うことで第一層から歩き直す手間を省き、直接ここへ飛んでくることができる。日夜を問わず潜り続ける蓮司にとって、絶対に確保しなければならない最重要インフラだった。


 蓮司は息を殺し、広間へ通じる最後の回廊の陰に身を潜めていた。


 手元の防水ノートには、この数日間の血と汗と泥にまみれた敗走の記録がびっしりと書き込まれている。


『午後八時十分。巡回ルートの交差点。毒矢のトラップ発動と同時に、天井からスライムの奇襲。右への回避は足場崩落でハズレ』


 蓮司は時計を見た。午後八時九分五十秒。


 深呼吸を一つ。ノートを懐にしまい、時間ぴったりに回廊へ飛び出す。


 直後、壁の隙間から三本の毒矢が射出された。蓮司はそれを見てから避けるのではなく、あらかじめ決めていた歩幅で左斜め前へと踏み込み、新しい籠手で顔面だけをガードする。


 矢が背後を通り過ぎた瞬間、天井から粘液の塊が落下してきた。


 これも計算通りだ。蓮司は立ち止まらずに前転でぬかるんだ床を転がり抜け、スライムが自重で床の崩落トラップを踏み抜いて自滅する音を背中で聞きながら、一気に回廊を走り抜けた。


 腕力でも、反射神経でもない。反復による「完全な決め打ち」だった。


「……またあなたね。本当に一人でここまで来たの?」


 チェックポイントの広間に出た蓮司を待っていたのは、呆れたような女の声だった。


 ダークブルーの防具を身に纏い、槍を片手に持った測量士、早瀬美琴だ。彼女は正規の調査依頼に基づき、比較的安全な別ルートからここへ到達し、魔素流のマッピングを終えたところらしい。


「あんたこそ、相変わらずマメなこったな」


 蓮司は肩で息をしながら、広間の中央に鎮座する巨大な石柱――中継帰還ゲートへと歩み寄った。


「これでようやく、一から歩き直す無駄が省ける。明日からは、少なくともここを拠点にできるってわけだ」


「呆れた執念ね。Eランクになったばかりのソロがうろついていい階層じゃないのに」


 美琴は肩をすくめ、蓮司の装備と呼吸を素早く確認した。


「いいから、あなたも早くタグをかざして認証を済ませなさい。ここの魔素流、さっきから少し不安定なの。早く地上に戻って報告書をまとめたいわ」


「ああ、分かってるよ」


 蓮司は石柱の表面にある窪みに、自分のEランクのドッグタグを押し当てた。


 美琴も反対側の窪みに自身のタグをかざす。


 その瞬間だった。


 ――ゴォォォォン……ッ!


 耳鳴りのような低い地鳴りが響き、ゲートの石柱が淡い光を放ち始めた直後。


 蓮司と美琴の足元、広間全体の空間が、強烈な魔素の揺らぎによってグニャリと歪んだ。


「なっ、何これ……!?」


 美琴が叫び、槍を構えて体勢を低くする。


 それは三十二層以深で起こるという『地形変動』とは異なる。迷宮のさらに深い深層に溜まった濃密な魔素が、深層潮として一時的に上層へ吹き上がる『反射』と呼ばれる現象だった。


 分厚い石の床が、まるで透明なガラスになったかのような錯覚。


 蓮司の視線が、透け去った足元の遥か下、底なしの深淵へと吸い込まれる。


 その真っ暗な闇の奥底で。


 ぼんやりと、だが確かに、人工的な『青いネオン』らしき光が瞬くのが見えた。


「……おい」


 蓮司は息を呑んだ。


 第十二層で見つけた、22:45という赤いデジタル数字とは違う。闇の底でチカチカと不規則に瞬く青白いネオン管の光。


 そして、視覚への異常に遅れて、今度は『音』が響いてきた。


 ――ジャララッ、チャリン……ジャラジャラジャラッ!


 硬質な金属の球体が、無数の釘やガラス板に弾かれてぶつかり合う、連続した衝突音。


 一つや二つの音ではない。何千、何万という金属球が、同時に箱の中で暴れ回っているような、あの特有の喧騒。


 それが、遥か足元から、地鳴りに混じって確実に響いてきたのだ。


「なに、今の音……金属の衝突音?」


 隣で美琴が目を見開き、信じられないという顔で足元の深淵を見つめていた。


 蓮司一人だけの幻聴ではない。Bランクの測量士である彼女の耳にも、その異常な音ははっきりと届いていた。匿名掲示板の与太話が、蓮司の個人的な思い込みや妄想ではなく、迷宮内に存在する「物理的な現象」として証明された瞬間だった。


 やがて魔素の揺らぎが収まり、床は元の冷たい石の感触を取り戻した。


 静寂が戻った広間で、美琴はすぐさまタブレットを取り出し、猛烈な勢いで数値を入力し始めた。


「今の音……異常だったわ。迷宮の固有音響現象の共鳴か、それとも未知の鉱石系魔物が群れで摩擦を起こしている音? いえ、だとしたらあの青い発光現象の説明がつかない。波長からして……」


 美琴がブツブツと真面目に学術的な検討を重ねている横で。


 蓮司は、足元の床を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。


(間違いない……今の音、そしてあのネオン)


 鉱石の摩擦音なんかじゃない。そんな立派な自然現象のはずがない。


 蓮司の耳には、あの音がどうしようもないほどの親しみを持って響いていた。それは同時に、給料日直後の財布の中身が、サンドのノズルへ高速で吸い込まれていく時の「ヒリつくような喪失感と高揚感」を強烈にフラッシュバックさせる音でもあった。


 だが、その自虐的な痛みを差し引いても、蓮司の胸の奥からは、今まで迷宮で感じたことのないような感情が湧き上がってきていた。


「……おい、測量士」


「なに? 今計算してるから話しかけないで……」


「本当にあるかもしれないな。迷宮の底に」


 蓮司の声は、ひどく穏やかだった。


 怪我の痛みに耐えてデータを取った時とも、22:45の文字を見て顔面を蒼白にした時とも違う。


 美琴が怪訝な顔で振り向くと、そこには、いつもの寝不足で死んだような目をした男ではなく、長年追い求めていた宝の地図の端っこをようやく見つけたような、純粋で素直な笑みを浮かべる男が立っていた。


「本当に、あるんだな」


 三十七層、深淵の果て。


『全台激熱』の都市伝説に向けて、蓮司の狂った巡礼は、ここから後戻りできない道へと足を踏み入れていくのだった。

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