第6話:装備も軍資金
鳴神大迷宮、第十一層。
無事にEランクへの昇格を果たした蓮司は、単独継続探索の許可を得て、新たな階層の土を踏んでいた。
第十層までの石造りの回廊とは打って変わり、第十一層は湿気を帯びた土と苔に覆われた洞窟地帯だった。足元はぬかるみ、少し歩くだけで泥がブーツにまとわりついて体力を奪っていく。
そして何より厄介なのは、出現する魔物の質が変わったことだ。
ズズン、と重い足音を立てて蓮司の前に立ちはだかったのは、体長二メートルほどの巨大な甲虫――『シールドビートル』だった。その名の通り、分厚い鋼鉄のような外殻に覆われており、蓮司の愛用する安い短剣では傷一つつけられそうにない。
(なるほど。硬い上に、突進の予備動作が短い)
すでに三回の接敵をこなし、蓮司の防水ノートにはシールドビートルの突進パターンが書き込まれつつあった。
六本の足のうち、前方の右足がわずかに沈み込んだ瞬間が合図だ。直線的な突進しかしてこないため、横に半歩ずれるだけで躱せる。データは十分に取れた。
四回目の接敵。甲虫の右足が沈み込んだのを見て、蓮司は冷静に左斜め前へとステップを踏み出した。
――ズルッ。
「……っ!」
その瞬間、蓮司の背筋に悪寒が走った。
第十一層特有の、苔むしたぬかるみ。これまで乾燥した石畳の階層に慣れきっていた足の運びが、ほんの数ミリ、泥に滑って遅れたのだ。
避けるはずだった突進の軌道に、蓮司の右半身が残ってしまった。
咄嗟に右腕をクロスして顔面と胴体を庇う。直後、ダンプカーに撥ねられたような暴力的な衝撃が蓮司を襲った。
バキィッ! という嫌な音を立てて、蓮司が長年愛用(妥協)してきた合成樹脂の安物プロテクターが粉々に砕け散る。
「ぐ、がぁっ……!」
プロテクターを貫通した衝撃が前腕の骨を軋ませ、蓮司の身体は数メートル後方へ吹き飛ばされて泥の海に転がった。
肺から空気が押し出され、むせ返りながらも蓮司は即座に立ち上がる。右腕は痺れて感覚がなくなり、だらりと垂れ下がっていた。致命傷ではないが、短剣を握ることは不可能だ。
(……損切りだ)
悔しがる暇すらない。蓮司は左手で煙幕玉を地面に叩きつけ、甲虫が怯んだ隙に、一目散に帰還ルートへと走り出した。
数時間後。探索者協会の地上支部。
救護スペースのベッドに腰掛けた蓮司は、治癒魔法使いの職員から右腕に分厚い包帯とギプスを巻かれていた。
「骨に細かいヒビが入ってますね。魔法で治癒を早めますが、最低でも三日は迷宮への進入を控えてください。無理をすれば一生腕が上がらなくなりますよ」
「……三日、か。痛えな」
骨の痛みではない。三日間、迷宮に潜れないという「機会損失」に対する痛みだ。
店(最深部)への道のりが三日間もストップする。その間に第十一層の状態変動パターンが変わってしまえば、また一からデータを集め直すことになる。
大きなため息をついた蓮司の耳に、ふと、聞き覚えのある凛とした声が降ってきた。
「三日間のロスを嘆くくらいなら、どうして最初からまともな防具を買わないのかしら?」
顔を上げると、ダークブルーの防具に身を包んだ測量士、早瀬美琴が腕を組んで立っていた。第十層の罠エリアで「失敗の履歴」について議論を交わした相手だ。彼女は協会の報告書を出しに来たついでに、蓮司の惨状を見とがめたらしい。
「あんたか。測量士様には分からないだろうが、金がない底辺探索者には、装備を整える余裕なんてないんだよ」
「余裕がない、じゃないわ。優先順位が間違っているのよ」
美琴は呆れたように息を吐き、蓮司の傍らに置かれた砕けた樹脂プロテクターを指差した。
「そんなペラペラの玩具で十一層の魔物の攻撃を受ければ、砕けるのは当たり前。あなたがどんなに避けるのが上手くても、今回みたいにイレギュラーで被弾することは必ずある。そのたびに三日も休んでいたら、最深部に行くまでに何年かかるつもり?」
「……それは」
「装備をケチって怪我をし、潜れない期間を作る。それが一番の『非効率』よ。怪我をしないための投資は、結果的に探索の回数を増やすの。あなたの言う『データを取るための試行回数』をね」
美琴の理路整然とした指摘に、蓮司はぐうの音も出なかった。
彼女は蓮司を「命を大切にしろ」といった道徳論で説教しているのではない。ただ純粋に、目的までのコスト計算が間違っていると指摘しているのだ。
「……確かに、あんたの言う通りだ」
蓮司は包帯の巻かれた腕をさすりながら、降参するように肩をすくめた。
「次から痛い思いをして三日休むくらいなら、ここで防具に投資した方が『回転数』が稼げるってことだな」
「回転数……? まあ、試行回数のことならその通りよ。立てるなら、今すぐ協会の武具店に行きなさい。私が最低限使い物になる籠手を見繕ってあげるから」
協会一階に併設された探索者向けの武具店。
ショーケースには、魔物の素材を使った強靭な武器や防具がずらりと並んでいる。美琴は迷うことなく一つのショーケースの前に立ち、店員に指示を出した。
「これを出して。第十五層に出現する硬獣の革で作られた籠手よ。軽量で関節の動きを阻害しないし、樹脂プロテクターの三倍は衝撃を吸収するわ。いまのあなたの実力と予算なら、これが最適解ね」
店員がうやうやしくカウンターに置いたのは、鈍い黒光りをする革張りの籠手だった。確かに、これまで蓮司が使っていた大量生産品とは作り込みが違う。
しかし、蓮司の目は籠手の性能ではなく、その横に置かれた値札のポップに釘付けになっていた。
『硬獣の革張り籠手:50,000円』
「ご、ごまん……」
蓮司はゴクリと生唾を飲み込んだ。
五万円。
(四円なら千回転は回せる。一パチなら、しばらく現実を忘れられる額だぞ……!)
蓮司にとっては大勝負だった。
「何固まっているのよ。Fランクのドロップ品を売って生活してきたあなたでも、この前の昇格試験の時に少しは手持ちがあるはずでしょ?」
美琴が怪訝な顔で覗き込んでくる。
彼女には、隣にいる男が頭の中で「籠手=パチンコ千回転」という狂った等式を思い浮かべていることなど知る由もない。
「いや……なんでもない。これを買う」
蓮司は震える手で財布を取り出し、夜勤の給与と換金したばかりのなけなしの探索報酬から、五万円分の紙幣を抜き出してカウンターに置いた。防水財布の奥底にある「最深部用の三千円」にだけは触れないよう、細心の注意を払いながら。
ここで五万円を払えば、次の被弾でも三日間の休業を避けられるかもしれない。蓮司は籠手を抱え、財布の隠しポケットだけは触れていないことを確かめた。
三日後。
治癒魔法によって無事に腕のヒビが塞がった蓮司は、真新しい『硬獣の革張り籠手』を両腕に装着し、再び第十一層の泥濘に立っていた。
目の前には、三日前に蓮司の腕を砕いたのと同じ個体と思われるシールドビートル。
ズズン、と足を踏み鳴らし、甲虫の右前足が泥に沈み込む。
突進の合図。
三日前、蓮司はこの突進を避けようとして泥に足をとられた。だが今日は、ステップを踏もうとすらしない。
「こいよ」
蓮司は足を肩幅に開き、重心を落として両腕の籠手を前に構えた。
次の瞬間、砲弾のような甲虫の突進が蓮司の身体に激突する。
ドォンッ! という重い衝撃音が洞窟に響いた。
蓮司の身体はずざざざっ、と泥の上を後方へ一メートルほど滑った。しかし、それだけだ。
「……すげえな、これ。全然痛くねえ」
硬獣の革が衝撃を完全に殺し、骨へのダメージをゼロに抑え込んでいた。五万円の投資は、見事にその価値を証明した。
突進を受け止められたシールドビートルは、想定外の抵抗に体勢を崩し、その場でもがくように動きを止めた。
避けていれば距離が開いていたが、受け止めたことで、蓮司は甲虫の至近距離に張り付いたままだ。
(突進の直後、頭部と胴体のつなぎ目の装甲が、約二秒間だけ無防備に開く……)
蓮司は瞬きもせずにその光景を脳裏に焼き付けた。
避けていれば見えなかった新しいデータだ。
蓮司はニヤリと笑い、懐から防水ノートを取り出した。




