第5話:Fランク、十層にいる
鳴神大迷宮の第一層から第十層までを往復する日々が続き、蓮司の分厚い防水ノートは、また数ページ分の黒い文字で埋まっていた。
午後六時。探索者協会・外縁支部の窓口。
魔石の換金を済ませ、第十層の特定エリアまで踏破した証明となる携行端末のログを提出した蓮司は、手続きをしてくれた若い職員から、予想外の言葉を投げかけられた。
「真壁さん。現在のFランク資格で合法的に進入できるのは、この第十層までとなります。明日以降、第十一層へ単独で継続探索を行う場合は、Eランクへの昇格が必須となりますのでご注意ください」
「……はい?」
蓮司は、受け取ろうとしていた明細書を持ったまま固まった。
「十層まで? Fランクってそんな縛りあったのか?」
「はい。正確には、十一層以降の単独での継続探索と、第十五層に設置されているチェックポイント――中継帰還ゲートの利用登録にEランク資格が必要になります。Fランクのままでも高ランクのパーティーに同行する場合は特例で入れますが、単独での進入は協会の規定違反となり、ペナルティの対象です」
淡々と告げられた事実に、蓮司は舌打ちを堪えた。
ペナルティを受けるのが嫌なわけではない。十五層のチェックポイントが使えないということは、そこから先へ進むたびに、毎回第一層から歩き直さなければならないということだ。それでは時間がかかりすぎる。ただでさえ夜勤の合間を縫って潜っているのだから、往復の移動だけで体力が尽きてしまう。
「なるほどね。じゃあ、そのEランクとやらになるにはどうすればいい?」
「昇格試験を受験していただきます。実技と筆記、両方で規定のスコアをクリアすれば、即日発行が可能です。ただし――」
職員は申し訳なさそうに言葉を区切った。
「もし不合格となった場合、規定により、再試験を受けられるのは十四日後となります」
「は……? 十四日?」
蓮司の顔から、さっと血の気が引いた。
二週間。二週間も、店(最深部)への道のりをお預けにされるというのか。
パチンコの新装開店を目の前にして、入場整理券を取り上げられ、二週間外で待っていろと言われているようなものだ。蓮司にとって、それは肉体的な怪我よりもはるかに精神的ダメージの大きい「死活問題」だった。
焦燥感に駆られて窓口の周囲を見渡すと、ふと、横の壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。
『命を守る最後の切り札――緊急帰還符。迷宮内どこからでも三十秒で安全圏へ転送』
そんな便利なものがあるのか、と目を向けて、その下に書かれた販売価格を見た瞬間、蓮司は危うく声を出して驚きそうになった。
(……ゼロが一つ多いどころじゃねえ。なんだこのぼったくり価格は)
とてもじゃないが、夜勤と低層のドロップ品で食いつないでいる今の蓮司に手が出せる代物ではない。あんな紙切れ一枚で、何ヶ月分の生活費が飛ぶか分からない。
だが、それが深層へ挑む命の相場なのだとすれば、今はどうでもいい。
蓮司にとっての最優先事項は、高額な帰還符を買うことでも、高尚な探索者としての名誉を得ることでもない。ただ、「明日も迷宮の下へ向かって歩き続ける権利」を死守することだけだった。
「……その試験、今すぐ受けられるか?」
「はい、本日の最終枠に間に合いますよ」
「頼む。絶対今日受かる」
三十分後。
協会支部の地下に併設された訓練場で、蓮司は息も絶え絶えになっていた。
実技試験の内容は、協会が用意した教官役のBランク探索者との模擬戦だった。五分間、相手の攻撃を凌ぎながら、有効な反撃をどれだけ入れられるかを見るというものだ。
結果から言えば、蓮司の動きはお世辞にも美しいとは言えなかった。
「……そこまで!」
終了のブザーが鳴り、蓮司は木剣を杖代わりにしてその場にへたり込んだ。
教官役の男は、汗一つかかずに蓮司を見下ろしている。
「動きの癖は悪くない。だが、筋力も踏み込みの速度もFランクの域を出ていないな。決定打に欠ける。ギリギリ及第点、といったところか」
教官の評価は妥当だった。蓮司の強みは「何度も負けて覚える」ことだ。初見の人間相手に、一回の模擬戦で完璧な対応などできるはずがない。致命傷になる一撃だけは泥臭く転がって避けたが、それ以上の見栄えのする立ち回りは不可能だった。
(くそっ……実技で点数が稼げないなら、筆記で満点取るしかねえ……)
十四日間の足止めという恐怖が、蓮司の尻を叩いていた。
続く筆記試験。
長机に座らされ、配られたタブレット端末に表示される問題を一瞥した蓮司は、拍子抜けして目を瞬かせた。
『問三:第十層から第十一層にかけて、発光色の異なる三つの魔素溜まりを発見した。最も致死性が高いと推測されるものはどれか。また、その際にとるべき最適行動を記せ』
『問七:帰還までの猶予時間が二時間、パーティーの疲労度が七割、保有する回復薬が残り一本の状況で、未踏の回廊を発見した。前進か、撤退か。理由と共に答えよ』
なんだ、これは。
蓮司は思わず鼻で笑いそうになった。
蓮司が毎日ノートにつけている内容、そのものだった。
(派手な色ほど実害はねえよ。一番ヤバいのは無色のやつだ。最適行動? 触らずにノートに書いて遠回りするに決まってんだろ)
(疲労度七割で回復薬一本? 馬鹿か、そんなオカルトみたいな確率で前進なんかするわけない。即撤退、明日出直す。死んだら次の回転は回せないんだからな)
彼が毎日毎日、血を吐くような思いで防水ノートに書き溜めてきた「失敗ログ」と「損切りのルール」が、そのまま問題として出題されているようなものだった。
蓮司は淀みなく、タブレットの画面をタップし続けた。
「……信じられんな」
すべての試験が終わり、奥の面接室に呼び出された蓮司の前で、初老の面接官がタブレットの成績データを見ながら唸っていた。
「実技試験は合格ラインすれすれだ。だが、危機察知、罠の規則性予測、撤退判断はすべて満点。どうやって覚えた?」
面接官は、分厚い眼鏡の奥から蓮司を興味深そうに見つめた。
「教本の文言じゃないな」
「あ、いや……」
蓮司は居心地の悪さに頬を掻いた。
「……無駄に負けて、損したくないだけなんで。痛いのも嫌ですし」
「損、とな?」
「はい。今日死んだら、明日遊べ……いや、明日潜れなくなるじゃないですか。負けを認めて帰るのが、一番安上がりな生存戦略ですから」
ポロリとこぼれ出た本音は、およそ命がけの探索者らしからぬ、ひどく俗っぽくて生活感に溢れたものだった。
面接官は呆気にとられたように瞬きをし、やがて、肩を揺らして低く笑った。
「……ははは。なるほど、君のような考え方の探索者は初めて見た。だが、死なないための合理性としては間違っていない。いいだろう」
面接官はタブレットに合格の承認スタンプを押し、蓮司に向けて新しいタグを差し出した。
「おめでとう、真壁君。本日から君はEランク探索者だ」
「……っ!」
蓮司は弾かれたように立ち上がり、新しいドッグタグを受け取った。
だが、彼の胸に去来していたのは、探索者としてランクが上がったという誇りや名誉の感情ではなかった。
(よかった……! これで明日も、続きが打てる……っ!)
二週間の足止めを回避し、明日もまた店に近づくことができる。
蓮司は新しいタグを握りしめ、長く息を吐いた。




