第3話:負けて帰るまで一回
鳴神大迷宮、第九層。
石造りの壁に這う青白い発光苔の明かりを頼りに、蓮司は防水ノートにペンを走らせていた。
『リザードマンの巡回、昨日は三匹一組だったが、本日は五匹の分散型。移動速度に約一・五割の遅延あり。魔素の逆流現象に伴う行動阻害の可能性』
文字通り、昨日の正解が今日のハズレになる。それが変動層の基本ルールだ。
周囲からは、魔物が金切声を上げて消滅する際の微かな魔素の残り香や、遠くで戦闘を行っている他の探索者の喧騒が聞こえてくる。Fランクの蓮司にとって、単独での第九層探索は決して安全な散歩ではない。一歩間違えば、昨日の門番のように致命傷を負いかねない危険地帯だ。
だからこそ、彼は慎重だった。いや、臆病と言い換えてもいい。
懐の防水財布には、最深部用の千円札が三枚。そして日々の生活費と体調を維持するための貯金。それらをすべて守るためには、迷宮の中で「死なないこと」が絶対の前提条件だった。
「おっ、すげぇ! ここの区間、マジで当たりじゃねえか!」
不意に、少し開けた広間のほうから浮かれた若い声が響いてきた。
顔を上げると、装備ピカピカの若い男が三人、軽装で歩いてくるのが見えた。おそらくEランクに上がったばかりか、あるいは一足飛びに深層へ色気を出した新人のパーティーだろう。前衛の剣士崩れの男が、銅貨の入ったポーチをじゃらつかせながら笑っている。
「昨日はゴブリンだらけだったのに、今日はほとんどいねえ。この配置なら行けるよな?」
「俺たち昨日は途中で撤退してるんだ。今日こそ稼ぎたい」
魔導士のローブをまとった男も、杖を握り直して奥を見た。彼らの足元には、討伐したらしい魔物の素材が散らばっている。
蓮司はノートを閉じ、彼らの横をすれ違いざらに観察する。
剣士の息は荒く、魔導士の魔力残量を表す装飾品は明滅が弱くなっている。さらに、天井の換気孔から流れ込んでくる空気の温度と湿度が、わずかに変わっていた。
(……そろそろだ。第九層の魔素流が切り替わる時間帯だな)
時計を確認する。午後四時十五分。
この時間帯を境に、第九層の奥に潜む群れの活動が活発化する。昨日、蓮司が二度目の敗走を喫した「魔素の潮目」が来る合図だった。
蓮司はすぐに自分の装備を点検し、帰還用のルートに意識を切り替えた。
「おっさん、アンタこれから奥に行くのか?」
すれ違いざま、斥候役の若い男が奇異なものを見るような目で蓮司に声をかけてきた。手入れの行き届いていない安物の防具に、疲れの滲んだ顔の男が一人で歩いているのだから、物好きに見えたのだろう。
「いや、引き上げる」
「もうですか? せっかく魔物が少ないのに、もったいなくないっすか」
「もったいなくないさ。今日はここまでだ」
「俺たち、昨日も引いてるんで。今日は奥の宝箱まで行ってみます」
新人の男たちは、自分たちに言い聞かせるように頷くと、奥の回廊へと消えていった。
蓮司は彼らの背中を特に怒ることもなく見送り、ただ小さく息をついた。
「若いうちは、自分の運と体力を過信できるから羨ましいねえ……」
蓮司は時計に四時十五分と記し、足早に出口へ向かった。
――ガァアアアッ!
十数分後。
安全な撤退通路を歩いていた蓮司の耳に、遠くから尋常ではない悲鳴と、地響きのような魔物の咆哮が届いた。
「なっ、なんだ……!?」
「嘘だろ、ふざけんな、多すぎんだろこれ!」
先ほど威勢よく奥へ消えていった新人パーティーが、文字通り血相を変えてこちらへ走ってきた。その背後には、第九層の固有種である『グレイ・グール』の群れ――十体以上の凶暴な魔物が、血に飢えた獣の目で彼らを追い回している。
状態変動の罠にハマり、完全に最悪のタイミングで群れの巣窟を踏み抜いたらしい。
「助けてくれ! 追いかけられて――って、お前、さっきの……!」
先ほど蓮司を嘲笑った剣士の男が、泣きそうな顔でこちらへ飛び込んできた。しかし、彼のパニックに満ちた走り方は、自ら退路を塞ぎ、さらに魔物を引き連れてくる最悪の軌道を描いていた。このままでは全員、追いつかれて一網打尽にされる。
蓮司は舌打ちしたい衝動を抑え、瞬時に周囲の地形を頭の中で計算した。
「おい、そこの新人のリーダー。泣き言は後だ。右に曲がるな、そこは袋小路だ。三メートル先の崩落した柱の隙間へ滑り込め!」
「えっ、でも、そこは――!」
「いいから言われた通りにしろ! 足を止めずに左の壁沿いに走れ!」
蓮司の低く、妙に有無を言わせぬ声のトーンに、剣士は反射的に従った。魔導士と斥候も慌ててその後を追い、崩落壁の狭い隙間へと転がり込む。
グールたちの視線が一時的にそちらへ逸れた隙に、蓮司は用意していた煙幕系の魔道具を床に叩きつけた。
プシュッと白い刺激臭の煙が広がり、視界が遮られた魔物たちがわずかに動きを止める。その一瞬の隙を利用して、蓮司は新人たちを引っぱり、自分が確認しておいた安全な退避路へと押し込んだ。
* * *
第八層との境界付近。安全地帯まで逃げ延びた新人三人組は、地べたにへたり込み、肩を激しく上下させて荒い息を吐いていた。
「はぁっ、はぁっ……死ぬかと思った……あんなの聞いてねえぞ……!」
「足が……足がもう動かない……」
命からがら生き延びた恐怖で、彼らの顔色は真っ青だった。
その少し離れた場所で、蓮司は汚れたプロテクターの泥を払いながら、自分の時計を確認していた。
(予定より二十分遅れたな……まあ、いいか)
怪我人はいない。装備の破損も最小限だ。彼らが全滅して迷宮の魔素バランスが狂う最悪の事態は避けたが、自分の今日の検証スケジュールが少し狂ったことのほうが、蓮司にとってはよほど面倒だった。
そこに、青ざめた顔の剣士がふらふらと歩いてきて、蓮司の前に土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。
「あ、あのっ……! ありがとうございました! あんたがいなかったら、俺ら今頃あの中でミンチにされてました……! すいませんでした、さっきは生意気言って……!」
「ああ、別にいいよ。怪我はないか?」
「はい、なんとか……。あの、見たところFランクですよね。どうして切り替わる時間が分かったんですか」
「昨日も同じ時間に逃げたからだよ。今日はお前らの分まで確かめられた」
「えっ?」
「次は四時前に引け。三人とも、生きてるうちにな」
蓮司は防水ノートをポケットにしまい、手短に新人たちにここから地上までの最短ルートを言い含めると、彼らより先に帰還ゲートのほうへと歩き出した。
感謝の声を背中で受けながら、蓮司はノートの「四時十五分」を丸で囲んだ。
今日も帰れる。なら、明日また続きを確かめられる。




