第29話:お一人様
鳴神大迷宮、第三十五層。
無機質な灰色の石室。その奥の壁には、人一人がようやく通れるほどの細い通路が五つ、等間隔に並んで口を開けていた。
石室の中央に鎮座するひび割れた古い石碑には、古代文字でこう刻まれている。
『ここから先は、己の個の力のみで進め。助け合いは許されず。試練に敗れし者は、安全にこの場へ還されるだろう』
「……個人試練、ね」
美琴がタブレットのライトで石碑を照らしながら、重々しい声で言った。
神代が五つの通路を厳しい目で見据えた。
「試練に敗れても死ぬわけではない。第十七層にあったような、強制転送のギミックだろう。だが……」
「問題は、時間だな」
蓮司が腕時計に目を落とす。
時刻は『21:37』。
神代と合意した絶対の撤退ラインである22:30まで、残り五十三分。そして、蓮司にとっての真のタイムリミットである『22:45の閉店時間』まで、残り一時間と八分しかない。
失敗して入り口に戻されれば、命は助かっても莫大な時間をロスする。ここでは、時間が何よりも重いコストとしてのしかかってくる。
「急ごう。誰がどの通路に入るかは関係ないはずだ」
神代の言葉に全員が無言で頷き、五人はそれぞれ別の通路へと飛び込んでいった。
蓮司が選んだ一番右端の通路は、松明の光が届かないほど薄暗く、足元には不規則に色の違うタイルが敷き詰められていた。
数メートル進むと、通路が三つに分岐している。
右の通路からは微かに甘い匂いがし、中央の通路は冷たい風が吹き抜け、左の通路は壁が薄く赤みがかって発光している。
(……罠の気配はない。だが、どれが正解だ?)
測量機材も神代のカバーもない。蓮司は自らの直感だけを頼りに、中央の冷たい風が吹く通路を選んだ。
足を踏み入れた瞬間、足元の石畳がカッと白く発光した。
――フワッ。
軽い浮遊感と共に視界が白く染まり、次に瞬きをした時、蓮司は先ほどまでいた第三十五層の入り口の石室に立っていた。
「……チッ。ハズレか」
蓮司は舌打ちをして腕時計を見た。二分のロス。
すぐさま同じ一番右端の通路へ再突入する。今度は分岐で右の通路を選んだ。無事に通過。しかし、さらに奥へ進むと、今度は足元のタイルが二色に分かれているポイントが現れた。
黒いタイルを踏んでみる。
再び白い光が弾け、蓮司は入り口の石室へと強制送還された。
「黒はハズレ、と。なるほど、ただの記憶ゲーと運試しの複合か」
蓮司は息を荒らげながら防水ノートを取り出し、分岐の正解ルートを素早く書き留める。
三回目の突入。さっきの黒いタイルのポイントで白いタイルを踏んで通過したが、その先で天井から降ってきた幻影の魔物に気を取られ、うっかり赤い壁に触れてしまい、またしても転送。
四回目。五回目。
蓮司は焦燥感に急かされるように通路を走り、そして何度も入り口に吐き出された。
死ぬ危険はない。だが、失敗するたびに時間が消える。
それでも蓮司のノートには、同じ大きさの字で分岐と結果が増えていった。
(……おかしい)
六回目の失敗で石室に戻された時、蓮司は額の汗を拭いながらノートの記述を見つめた。
分岐のパターンを記録しているうちに、彼はこの通路に仕掛けられた悪辣なギミックの正体に気づき始めていた。
右、白、左、黒、中央。
正解のルートは毎回ランダムに変わっているように見えるが、実はそうではない。
(さっきの四回目の突入の時、三つ目の分岐の正解は『赤く発光する壁』だった。だから五回目の突入の時も、俺は無意識に赤い壁を選んで……転送された)
蓮司はハッとして顔を上げた。
この迷宮の個人試練は、単なる運試しではない。人間の『直前の成功体験』を脳に焼き付け、次の分岐で無意識に同じ選択をさせようとする引っかけなのだ。
パチンコで言えば、前回大当りを引いた熱い演出が来ると、内部状態が違うのに「次も当たるはずだ」と期待して全ツッパしてしまう、あの射幸心を煽る罠と同じ構造。
「……性格悪すぎるだろ、この迷宮の設計者」
蓮司はニヤリと不敵に笑った。
人間の心理の隙を突く悪意あるプログラミング。だが、その悪意に気づいてしまえば、対処法は極めてシンプルだ。
七回目の突入。
蓮司は通路を駆け抜けながら、自分の脳にこびりついた「さっきの正解」の残像を意図的に切り捨てた。
赤い壁が正解だった記憶。右の通路が安全だった感覚。それらの成功体験に引きずられそうになる本能を無理やり押さえ込み、あえて自分が一番「不自然だ」と感じる選択肢へと飛び込んでいく。
自分の癖を、逆に利用した。
冷たい風が吹く通路。黒いタイル。無音の空間。
転送の光は、一度も発動しない。
蓮司はノートを見ることすらやめ、ただ自分の直感が警鐘を鳴らす「逆」の道だけを選び続けた。
そして、長い回廊の突き当たり。
重厚な黒曜石の扉が現れ、蓮司が手を触れると、音もなくそれは開かれた。
「……遅いわよ!」
扉を抜けた先の少し広い空間。第三十六層の手前となるその場所には、すでに腕を組んで仁王立ちしている早瀬美琴の姿があった。
「美琴……お前、もう抜けてたのか」
蓮司が驚いて目を丸くすると、美琴は呆れたように大きなため息をついた。
「当たり前でしょ。あんなの、空間の魔素の揺らぎと分岐の法則性を測量データで逆算すれば、三回の試行で完全にルートが読めるわ。私を誰だと思ってるのよ」
測量機材を持ち込めない通路でも、美琴は身体で覚えた魔素の揺らぎを読んでいた。
「それより、あなた一体何回失敗したのよ。いくら死なないからって、時間使いすぎよ!」
美琴が苛立ち交じりに自分の腕時計を指差した。
蓮司も自分の左腕を見る。
時刻は『21:58』。
22:30の撤退リミットまで、残りわずか三十二分。
三十七層の店舗まであと二つの階層を残して、この残り時間は致命的だった。美琴が焦るのも無理はない。これ以上少しでも手間取れば、神代との約束通り、この遠征はここで打ち切りになってしまう。
だが。
「なんだ、まだ三十分以上もあるじゃないか」
蓮司は腕時計の盤面をポンと叩き、全く悪びれる様子もなく平然と言い放った。
「それに、あのクソみたいな引っかけの連続を、たった七回で抜けられたんだぜ。時間切れまで連れて行かれなかっただけ、今日は相当ヒキが強い。上出来だろ」
「は……? 七回? な、ななかいも失敗しておいて、何が上出来よ! 少しは焦りなさいよ!」
本気で怒る美琴の前で、蓮司は「まあまあ」と手を振った。
二十一時五十九分、神代が別の扉から現れた。
二十二時一分に盾役、二十二時三分に遊撃役も合流する。
五人揃ったのを確認すると、美琴は会話を打ち切り、第三十六層への扉を開いた。




