第27話:持ち玉より残り時間
鳴神大迷宮、第三十三層。
時間を削り取る地形変動の迷路を抜け、新たな階層へと足を踏み入れた蓮司たちは、その場に一歩踏み出した瞬間、目に見えない巨大な手に上から押さえつけられたような錯覚に陥った。
「……ぐっ、なんだこれは。身体が鉛のように重い」
先頭を歩いていた神代が、顔を顰めて膝を突いた。
彼だけではない。美琴も、白嶺のメンバーたちも、息を荒らげて苦しそうに肩を上下させている。蓮司もまた、背中に見えない大岩を背負わされたような重圧に耐えかね、思わず壁に手をついた。
「真壁、気をつけて……重力異常と、異常な高密度の魔素圧よ」
美琴が額に汗を滲ませながら、エラー表示を繰り返すタブレットを睨みつける。
「空間そのものが歪んでいるわ。普通の呼吸すら体力を奪われる」
だが、真の異変はそれだけではなかった。
ボンッ! という破裂音と共に、白嶺の遊撃役が腰から提げていたポーチ――魔法の力で内部空間を拡張し、大量のポーションや予備武器を詰め込んでいた『マジックバッグ』が弾け飛んだ。
収納されていた大量の物資が、耐えきれずに実体化し、回廊の床にガラガラと散乱する。
「収納具がショートした!? それほど桁外れの魔素密度なのか!」
散らばった荷物を見て、神代の顔色が変わった。
三十一層以深の過酷な深層攻略において、大量の回復薬や予備の照明、破損を見越した予備武器の存在は、パーティーの命綱そのものだ。空間収納具が使えないとなれば、それらをすべて『自力で』背負って運ばなければならない。
しかし、ただでさえ立っているだけで体力を奪われる異常重力下で、数十キロに及ぶ荷物を背負うことなど不可能に近い。
「……マズいぞ」
蓮司は腕時計に目を落とした。
時刻は『18:25』。
第一の撤退リミットである「19:00時点で三十四層未到達」まで、あと三十五分しかない。
重い荷物を引きずって歩幅が落ちれば、どう計算しても時間内にこの階層を突破することはできない。戦闘の難易度ではなく、『運べる物資の取捨選択』という全く新しい資源管理の壁が、彼らの前に立ちはだかったのだ。
「ここに第二安全アンカーを打つ。予備の重武器、過剰なポーション、設置型の魔道具は固定範囲内へ置いていく」
数秒の思考の後、神代は血を吐くような苦渋の決断を下した。
「位置はベースキャンプへ送る。帰路で拾えなければ、次回の回収隊に任せる。自力で無理なく運べる最低限の武装と、一人三本のポーションだけを持て。動きを阻害する重装甲は外せ」
「リーダー! しかしそれでは、万が一ボスと遭遇した場合の継戦能力が……!」
「持ったままでは、そもそもボスに辿り着く前に時間が尽きる! この階層における最大の敵は魔物ではない、時間と重量だ!」
神代の怒鳴り声に近い命令に、白嶺のメンバーたちは唇を噛み締めながら、高価な予備装備やポーションを次々と床に置き始めた。
生存確率を極限まで高めることを是としてきた彼らにとって、自ら防具を脱ぎ、回復薬を手放すという行為は、正気の沙汰とは思えない恐怖を伴うものだった。
蓮司もまた、壁際で身を切るような選択を迫られていた。
彼はリュックを下ろし、中に詰め込んでいた予備の短剣、照明用の魔石、そして第十七層の療養明けに大枚を叩いて買ったばかりの『防刃素材のジャケット』を取り出した。
このジャケットと籠手があったからこそ、風鎌鼬の凶刃をギリギリで凌ぐことができたのだ。これを外せば、次の被弾は直に肉を裂き、即ち死に直結する。
蓮司は少しだけ躊躇い、その高級ジャケットと予備アイテムを見つめた。
(……これ、全部合わせたら十万近くしたよな)
極限状態にあっても、パチンカスとしての脳内電卓は無意識に作動してしまう。
(十万……四円なら二万五千発。一パチなら当分遊べる。それを、こんな泥まみれの床に置いていくのか……?)
命の危険よりも先に、遊技予算への換算が頭をよぎり、未練が心をかすめる。
「真壁、何を迷っているの。早くしなさい」
自分の荷物を最低限にまとめた美琴が、鋭い声で急かした。
「……分かってるよ」
蓮司はフッと息を吐き、ジャケットをアンカーの固定範囲へ畳んで置いた。
蓮司は身軽になった身体で立ち上がり、腕時計の文字盤を指で叩いた。
「どれだけ大量の持ち玉(荷物)を抱えてたって、閉店時間を迎えちまったら全部パーだ。時間内に取り切れない(辿り着けない)玉なら、最初から持ってないのと同じことだからな」
高価な装備への未練はあった。だが、命をチップにはしない。
重い荷物を抱えて遅れをとり、19:00の撤退ラインに引っかかって店に行くチャンスを逃すくらいなら、身一つになってでも最速で駆け抜ける。
蓮司のその潔すぎる判断を見て、神代は小さく頷き、前を向いた。
「行くぞ。ここからは、魔物との戦闘は極力回避する。真壁君、頼めるか」
「ああ。隠れてコソコソ進むのは得意中の得意だ」
極限の隠密行軍が始まった。
防御力も継戦能力も激減した今の彼らは、まともな魔物とぶつかれば一溜まりもない。
蓮司は先頭に立ち、異常重力で鉛のように重い足を引きずりながらも、全神経を眼と耳に集中させた。美琴の測定器が発する微かなエラー音の間隔と、周囲の魔素の淀みを読み取り、魔物の巡回ルートをミリ単位で避けていく。
ズォォォン……。
隣の回廊を、巨大な何かが歩く重低音が響く。
蓮司たちは壁の影に息を潜め、冷や汗を流しながらその通り過ぎるのを待った。
一分が一時間に感じられるほどの極度の緊張状態。息をするだけでも肺が焼け付くように痛い。
(……あと十五分。……あと十分)
腕時計の針が、無慈悲にタイムリミットへと近づいていく。
重装備のままでは絶対に間に合わなかった。荷物を置き、身軽になったからこそ、彼らは魔物の隙間を縫うようなスピードで第三十三層の迷路を切り裂いていくことができたのだ。
「……見えたぞ!」
蓮司の掠れた声に、全員の視線が前方へ向けられた。
薄暗い回廊の突き当たりに、黒光りする重厚な両開きの扉が存在していた。
三十四層への入り口だ。
「時間は!?」
「十八時五十三分! 間に合ったわ!」
美琴の叫びに、白嶺のメンバーたちが安堵の息を漏らし、その場にへたり込みそうになるのを必死にこらえた。
ギリギリの到着。資源管理という苦渋の選択が、彼らを時間切れから救ったのだ。
神代が扉に手をかけ、押し開けようとした、その時だった。
「……おい。なんか聞こえないか?」
蓮司がピタリと動きを止め、扉の奥、暗闇の先へと耳を澄ませた。
全員が息を殺す。
重力と魔素が渦巻く深層の底。これまでは魔物の唸り声か、風の音しか存在しなかった世界。
だが、その扉の向こう側から、ごく微かに、だがはっきりと『それ』は聞こえてきた。
「……音楽?」
美琴が信じられないというように呟く。
それは、電子音で構成された、チープでポップな、やたらとテンポの速い旋律だった。
迷宮の荘厳さとも、古代の神秘とも無縁の、あまりにも俗っぽくてやかましい音楽。
蓮司の顔に、これまでにないほど強烈な歓喜の色が浮かび上がる。
(……間違いない。店内BGMだ)
録音データではない。今まさに、リアルタイムで三十七層から響き渡ってくる本物のホールの息吹。
彼らが費やした時間も、置いてきた装備も、決して無駄ではなかった。
狂ったような電子音のメロディに導かれるように、蓮司は三十四層への扉を力強く押し開けた。




