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第26話:帰り道が動く

鳴神大迷宮、第三十二層。


 背後にあったはずの巨大な石階段が、重厚な地鳴りと共に壁の奥へとスライドし、完全に消失した。


 それが『地形変動深層』からの、最初の強烈な挨拶だった。


「……退路が絶たれたわけじゃない。我々には帰還符がある」


 神代岳の落ち着いた声が、白嶺のメンバーたちの動揺を鎮める。彼らは即座に陣形を組み直し、未知の領域に対する警戒レベルを最大まで引き上げた。


 三十一層までの常識は通用しない。蓮司たち合同チームは、じりじりと慎重な足取りで前進を開始した。


 だが、三分ほど歩いて最初の交差点を曲がった時だ。


「待って! 全員ストップ!」


 後方で測量機材を抱えていた美琴が、悲鳴のような声を上げた。


「どうした、早瀬測量士」


「マップの描画が……追いつかないの。空間の座標データが、リアルタイムで書き換わっているわ」


 美琴が示すタブレットの画面には、彼らが今歩いてきたばかりの『一本道』が表示されているはずだった。しかし、画面上の通路はまるで生き物のようにうねり、途中でちぎれ、別の回廊と勝手に接続されていく。エラーを示す赤い警告表示が点滅していた。


 蓮司がパッと後ろを振り返る。


 さっきまで真っ直ぐだったはずの背後の通路が、いつの間にか緩やかなカーブを描いて右へと曲がっていた。


「……なるほどな。こりゃ酷い」


 壁が動く音も、魔素の異常な揺らぎも感じなかった。まるで、最初からそういう道だったと脳の認識をすり替えられるような、極めて滑らかで悪辣な空間のズレ。


 ただ闇雲に前へ進めば、三分後には自分たちがどこから来たのか、どこへ向かっているのか、完全に方向感覚を失って遭難する。


「測量の機械はアテにならない。だが、全くのランダムで動いてるわけじゃないはずだ」


 蓮司はタブレットを睨みつける美琴の横に立ち、いつもの防水ノートを取り出した。


「機械が追いつかないなら、手書きで記録する。俺たちが『交差点の真ん中を踏んだ瞬間』に、後ろの道が何度ズレたか。どのタイルを踏んだ時に、壁の模様がスライドしたか」


 蓮司の提案は、第三十一層までやってきた『状態変動の履歴化』を、地形そのものに応用するというものだった。


「進んでは振り返り、変化の順番シフトをログに残す。時間はかかるが、変化の規則性さえ掴めば、逆算して帰りのルートを割り出せるはずだ」


「……やるしかないわね。私が歩幅と角度を読み上げる。真壁は記録に集中して」


「了解だ。神代、先導と護衛は頼むぞ」


 神代が力強く頷き、一行は再び歩き出した。


 五メートル進んでは立ち止まり、背後を振り返って空間のズレを確認する。ノートに図形と時間を書き込み、また数メートル進む。


 戦闘は起こらない。第三十二層の魔物たちは、この異常な空間変動に順応しているのか、あるいは獲物が迷い疲れるのを待っているのか、影を潜めていた。


 だが、魔物が襲ってこないからといって楽なわけではない。


「……くそっ、また時間が削られる」


 蓮司は腕時計をチラリと見て、ギリッと奥歯を噛んだ。


 一歩進むごとに地形の変化を確認する作業は、想像を絶するほど『時間』を消費した。


 彼らには、神代と合意した『19:00時点で三十四層に未到達なら撤退』という第一のタイムリミットがある。さらにその奥には、蓮司が何よりも恐れる『22:45の閉店時間』が控えているのだ。


 戦闘ではなく、「迷わないこと」自体に莫大な時間を吸い取られていく。それは、蓮司にとって砂時計の砂を直接削り取られているような、強烈な焦燥感だった。


「真壁君。このポイントに『安全アンカー』を打とう」


 神代が立ち止まり、協会から支給された三十センチほどの杭状の魔道具を取り出した。


「地形が動くなら、空間の座標を強制的に固定する目印を置くしかない。ここを起点にして、次の分岐を探る」


「ああ、そうだな。貸してくれ」


 蓮司は神代からアンカーを受け取ると、回廊の硬い床の隙間に力強くそれを打ち込み、魔力を通して固定した。


 淡い光を放つアンカーを見て、白嶺のメンバーたちは少しだけ安堵の息を漏らす。彼らにとって、それは狂った空間における唯一の命綱であり、絶対に見失ってはならない帰還の道標だった。


 緊張感のある作業だ。普通なら、これを打つ手にも力が入るだろう。


 しかし、アンカーを打ち込んだ蓮司の胸中にあったのは、悲壮な決意でも、命綱を確保したという重い実感でもなかった。


(よし。これでこの場所は『キープ』だな)


 蓮司はアンカーの頭をポンポンと叩き、どこか俗っぽい安心感を抱いていた。


 その感覚は、パチンコ屋で確変が止まらない時に、どうしてもトイレに行きたくなって下皿にタバコの箱やライターを置き、「ここは俺の台だ」と主張して席を確保する時の、あの感覚と全く同じだった。


(どれだけ通路がぐちゃぐちゃに動こうが、ここに俺の荷物アンカーが置いてある以上、ここまでは確実に帰ってこれる)


 命がかかっている深層のど真ん中で、ただ一人「席取り」と同じテンションで空間を固定している男。


「……真壁、何をニヤニヤしてるのよ。アンカーを打ったからって、そこまでのルートの逆算を間違えたら帰れないのよ?」


 美琴が怪訝な顔で咎めるが、蓮司は「分かってるって」と軽く手を振った。


「帰り道の確保は絶対にサボらねえよ。席を確保しとかないと、安心して出玉データを伸ばせないからな」


「は……? 席?」


 神代と美琴が顔を見合わせる中、蓮司は腕時計をもう一度確認し、ノートの新しいページを捲った。時間を惜しむ彼だが、この「帰るための手続き」だけは、どれだけ焦っていても絶対に省略しなかった。


 地道で、神経をすり減らすようなマッピングとアンカー設置の反復。


 どれだけの時間をその作業に費やしただろうか。


「……見えたぞ。あれだ」


 蓮司の声に、全員が顔を上げた。


 不規則にうねる回廊の突き当たり。これまでの壁とは明らかに異なる、黒曜石のように滑らかで重厚な両開きの扉が、彼らを待ち受けるように静かに佇んでいた。


 第三十三層へと続く、エリアゲートだ。


 神代が警戒しながら扉に手をかけ、力を込める。重い摩擦音と共に、深淵への入り口がゆっくりと開かれた。


 第一関門の突破。合同チームのメンバーの顔に、疲労と達成感が入り交じる。


 だが、蓮司は扉が開いたことへの歓喜よりも先に、自分の左腕に視線を落とした。


 腕時計の針が指し示している時刻。


 ――『18:12』。


 第一チェックポイントである『19:00(三十四層未到達で撤退)』まで、あと四十八分しかない。


(……クソ。たった一層抜けるのに、二時間以上も持っていかれたのか)


 時間が足りない。


 未知の地形変動は、彼らの体力よりも先に『時間』という最も重いコストを容赦なく削り取っていた。


 息をつく暇もない。蓮司は開かれた扉の奥、さらに深く暗い第三十三層の闇を見据え、焦りを隠して無言のまま足を踏み入れた。

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