第25話:深層攻略は七時間
鳴神大迷宮、第三十一層。ベースキャンプ。
第三十二層へ入るのは、蓮司、美琴、神代、白嶺の盾役と遊撃役――計五人に絞られた。
白嶺の後衛二人は第三十一層に残り、深層ゲートの監視、アンカー信号の追跡、帰還者の救護を担当する。全員で未知へ突っ込むより、外に救援の手を残すための編成だった。
ここから先の『地形変動深層』は、迷宮の最深部から湧き上がる魔素の奔流――深層潮が発生する特定の曜日、しかも『十六時から二十三時』の間しか進入できないという厳しい制限がある。
現在の時刻は、十五時四十分。進入可能時刻まであと二十分と迫る中、神代が全員に向けて一枚の札を掲げた。
「進入の前に、最終確認を行う。各自、協会から支給された『緊急帰還符』を手元に」
蓮司も、防水財布の奥底から厳重にパックされた小さな護符を取り出した。
かつて協会窓口のポスターを見て、その価格に呆れた超高額アイテムだ。非戦闘状態であれば、三十秒の詠唱でこの第三十一層の安全地帯まで転送してくれる。
「これは単なるお守りではない。確実に機能することを、今ここで実地テストしておく」
神代の指示に従い、全員が帰還符に微量の魔力を流し込む。
札の表面に細かな術式が浮かび上がり、チリチリと魔素が収束していくのを感じた。三十秒後、蓮司の身体が淡い光に包まれ、足が数センチほど床から浮き上がるような転送の予兆が発生する。
「よし、確認完了だ。全員の札が正常に作動しているな」
神代の声で魔力の供給を止めると、転送の予兆はスッと消え去った。
蓮司はホッと息を吐き、帰還符をすぐに取り出せる胸ポケットにしまい直した。少なくとも、帰還手段が作動することは確認できた。
「次に、時刻表と撤退条件の合意だ」
神代はタブレットの電子書類を五人と、ベースキャンプの後衛二人へ転送した。
――十六時、進入。
――十九時、第三十四層未到達なら即時撤退。
――二十一時三十分、第三十五層で進捗と帰還所要時間を再評価。
――二十二時三十分、第三十七層入口未到達なら即時撤退。
――入店できた場合も、二十二時四十三分に店内退出。
――二十二時四十五分、閉店。
――二十三時、深層ゲート閉鎖。
「帰還符の発動には三十秒の非戦闘状態が要る。どの時点でも、撤退条件に触れたら議論はしない。ベースキャンプ側も同じ表で監視する」
白嶺のメンバーと美琴は、何の躊躇いもなくタブレットに電子署名を書き込んだ。プロとして、あるいは測量士として、完璧に理にかなった安全設計だ。
だが、蓮司だけはペンを持ったまま、渋い顔をして固まっていた。
「……おい、神代。二十二時三十分ってのは、少し早すぎないか?」
「一秒でも遅れれば全滅のリスクが跳ね上がる。三十分のマージンは最低限だ」
「いや、そうじゃなくてだな」
蓮司は額を掻き毟りながら、灰原の残した録音データの音声を頭の中で反芻していた。
――『当店は、二十二時……四十五分をもちまして……』
店が閉まるのは、二十二時四十五分なのだ。
「二十二時三十分を一秒でも過ぎたら撤退なんて、厳しすぎるだろ!」
「…………は?」
神代が、信じられないという顔で蓮司を見た。
「せめて四十……いや、三十五分まで待ってくれ! そこからでも、店内退出まで八分は残る!」
命がかかった最終防衛ラインで、この男は本気で「パチンコを打つための八分」を確保しようと交渉を持ちかけてきているのだ。
緊迫した空気が一瞬で崩れ去り、美琴が頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「……真壁君。命あっての物種だ。危険を冒してまで、未確認の施設に滞在する時間を延長する意味はない」
神代は努めて冷静に、あくまで現実的なリスク管理の観点から返した。
「いいか。君の言う通り『一回で決めなくていい』のだ。今日辿り着けなくても、あるいは滞在時間が短くても、生きて帰りさえすれば、明日また時間を調整して挑むことができる。君の哲学と同じはずだ」
「…………くそっ。正論だな、アンタの言う通りだ」
蓮司はギリッと奥歯を噛み締め、渋々ながらもタブレットに署名を書き込んだ。
死んだら次の回転はない。命だけは期待値の式に入れない。
十六時ちょうど。
重厚な金属の摩擦音と共に、第三十二層への封鎖壁がゆっくりと開かれた。
蓮司たちは隊列を組み、未知の領域へと足を踏み入れる。
その瞬間だった。
ゴゴォォォォンッ!
背後で凄まじい地鳴りが起きた。蓮司たちが振り返ると、たった今彼らが降りてきた石造りの巨大な階段が、まるで巨大なスライドパズルでも動かすかのように、横方向へと『ズレて』いく光景が目に飛び込んできた。
階段は壁の奥へと飲み込まれ、代わりに何もないのっぺりとした岩肌が現れる。
「なっ……! 階段が、消えた!?」
白嶺の遊撃役が青ざめた声を上げる。
第三十一層まで、地形は常に固定されていた。どれだけ罠が変動しようと、道を戻れば必ず前の階層への階段があった。だが、ここから先の『地形変動深層』では、その大前提が完全に崩れ去る。
物理的な退路が、世界そのものの手によって断たれたのだ。
「……落ち着け。想定内だ」
動揺が走る中、神代の重い声が響くよりも早く。
蓮司はパニックになるどころか、胸ポケットの上からバシッと手のひらを当てていた。
「……よし」
緊急帰還符の存在確認。
帰り道の階段が物理的に消え去った異常事態を前にして、蓮司の脳内は極めてシンプルだった。
(歩いて帰る道がなくなったなら、札を使って帰るしかない。なら、札さえちゃんとあれば何も問題ねえな)
彼は帰還手段が機能していることだけを反射的に確認すると、何事もなかったかのように前を向いた。
「急ぐぞ。あんまりのんびりしてると、遊ぶ時間がなくなっちまうからな」
ベースキャンプから、帰還符の信号を正常に受信したという短い通信が届いた。蓮司はそれを確認してから、隊列へ戻った。




