第24話:三十一層、OPEN
鳴神大迷宮、第三十一層。
探索者協会が公式に『公開最深層』と定めているこの階層の最終防衛ラインは、蓮司の誘導と神代の雷撃によって、ついに完全に沈黙した。
黒い灰となって崩れ落ちる巨大な魔物を背に、蓮司は大きく息を吐き出し、籠手に付着した泥を払い落とした。
「……終わったな」
「ああ。君の誘導が効いたな、真壁君」
大剣を納めた神代岳が、肩で息をしながらも充実した表情で頷く。彼らAランクパーティー『白嶺』のメンバーたちも、誰一人として欠けることなく、この前人未到に近い領域に立っていた。
そして、魔物が消え去った回廊の奥に、重厚な金属製の『封鎖壁』が姿を現した。
ここから先は、地形自体が固定されている第三十一層までとは違い、帰還ルートすら形を変える。第三十二層以降の『地形変動深層』へと繋がる境界だ。
「おい、測量士。あの壁の奥……なんか光ってないか?」
蓮司が壁の僅かな隙間を指差して言った。
後方でタブレットを操作していた美琴が顔を上げ、高出力の魔素ライトを隙間の奥へと照射する。
「……え?」
ライトの光が暗闇を切り裂き、封鎖壁の奥の空間を照らし出した瞬間、美琴の口から間の抜けた声が漏れた。
そこに在ったのは、魔物の巣でも、古代の遺跡でもなかった。
暗闇の中に浮かび上がっていたのは、プラスチックと金属でできた、巨大な人工の『看板』だったのだ。
ジジッ……ジジジッ。
微弱な魔素に反応したのか、看板の縁を縁取るネオン管が、不規則に青白い光を放ち始めた。
その光に照らされて、看板の中央に描かれた意匠がはっきりと視界に飛び込んでくる。
「……おいおい、マジかよ」
蓮司は喉を鳴らした。
看板の左上には、彼が第八層で拾った金属球に刻まれていたのと同じ、そして第十八層で拾った黒いカード片と同じ『青い三本線』のロゴマーク。
その隣に、太いゴシック体で、ついに完全な文字列が記されていた。
――『GRAND ABYSS』
「グランド・アビス……」
蓮司がその文字を読み上げた。それが、彼が追い求め続けた都市伝説の「店名」だった。
さらに、その下には営業時間と目的地を示す決定的な情報が記されている。
――『OPEN 10:00–22:45』
――『37F』
「三十七層……!」
神代が鋭い声を上げた。
「迷宮の全階層は三十七層と推定されていたが、まさかこんな形で答え合わせをすることになるとは……。それに、22:45という数字。灰原先輩が残した録音データの閉店時間と完全に一致している」
美琴もタブレットで看板の写真を何枚も撮影しながら、震える声で言った。
「フェイクじゃないわ。使われている素材も、魔素の帯び方も、あの黒い樹脂片と同じ……。本当に、この迷宮の底の第三十七層に、営業時間を設定された施設があるのよ」
「三十二層から三十六層までの道が動いても、目的地の座標だけは固定されている可能性が高い。この看板が示す三十七層は、終端のアンカーなのかもしれない」
トップ探索者である神代と、一流の測量士である美琴が、自分たちの常識と世界観を根底から覆す歴史的発見に戦慄していた。
だが、蓮司の視線は看板のさらに隅、ごく小さく書かれた『ある一文』に釘付けになっていた。
――『CASH(JPY) ACCEPTED』
「……お、おい。測量士」
蓮司の声が、微かに裏返っていた。
「ん? どうしたのよ」
「あそこに書かれてるJPYって……日本円、だよな?」
美琴はライトの角度を調整し、その文字を確認して息を呑んだ。
「……本当だわ。CASH……現金、日本円が使える? 待って、これは単なる迷宮の異常現象じゃない。現代社会の経済システムとこの大迷宮が、何らかの形で直接繋がっているという決定的な証拠……! 学会がひっくり返るわよ!」
美琴が興奮のあまり早口で捲し立てる横で。
「日本円が、使える……!」
蓮司は学会の事など一ミリも考えていなかった。
彼は慌てた様子で、懐から使い込まれた防水財布を取り出した。ジッパーを乱暴に開け、一番奥の隠しポケットに指を突っ込む。
「あった……よかった、湿気でカビたりしてねえな」
彼が震える手で引っ張り出したのは、地上のパチンコ屋で激熱を外したあの日から、絶対に手をつけず温存してきた『折り目のある千円札、三枚』だった。
「な……ちょっと真壁君? 君は一体何をしているんだ?」
人類の歴史が変わるかもしれない大発見を前にして、財布の奥からシワシワの千円札を取り出して枚数を数え始めた蓮司を見て、さすがの神代も困惑顔を隠せなかった。
「何って、軍資金の確認に決まってるだろ」
蓮司は三千円を愛おしそうに見つめながら、至って真面目に答えた。
「三十七層に店があって、しかも日本円の現金がサンドに入るんだ。だったら、辿り着いた時に玉を借りる金がなきゃ話にならないだろ。三十七層まで行って『すいません、お金下ろし忘れてました』じゃ、末代までの恥だからな」
「いや、恥とかそういう問題ではなくて……」
「とにかく、これで俺の中で完全に証明された。あの店は幻でもオカルトでもない。正真正銘、俺の三千円を吸い込んでくれる本物のパチ屋だ」
蓮司が財布に千円札を戻すのを見て、美琴は「こいつの頭は三十七層の魔物より厄介だわ……」と深々とため息をついた。
数十分後、美琴が送信した看板の画像とデータは、地上の探索者協会に凄まじい衝撃を与えた。
すぐさま特例措置として、白嶺と蓮司たちの合同チームに対し、『第三十二層以降の地形変動深層への特別攻略許可』が正式に発行された。
「……ここから先は、これまでの法則が通じない真の未知だ」
神代が封鎖壁を見据え、表情を引き締める。
「地形そのものが変わり、帰る道すら動く。三十七層というゴールが明確になったとはいえ、我々は命を預ける覚悟を新たにしなければならない」
神代の重い言葉に、白嶺のメンバーたちが力強く頷く。
しかし、その後ろで蓮司は、防水ノートの新しいページを開き、大きく『37』という数字を書き込んでいた。
「今が三十一層だから……あと六層か」
蓮司にとって、それは覚悟を問うような哲学的な距離ではない。
ただ単に、あと六回階層を降りれば、あのネオン輝く台の前に座れるという、物理的で明確なカウントダウンだった。
ジジッ……バチィッ。
その時、封鎖壁の奥の看板が、一際明るく輝いた。
『OPEN』の四文字が、深淵の闇の中で鮮やかな青色に点灯する。
店は開いている。そして、22:45という閉店時間に向けて、着実に時を刻んでいる。
「……待ってろよ。閉店前には必ず行ってやるからな」
蓮司は点灯した看板を見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
蓮司たちは、帰る道の保証されない最後の深層へ踏み込もうとしていた。




