第20話:十二年前の閉店
鳴神大迷宮への潜行を終え、地上へ帰還した蓮司と美琴は、外縁支部から少し離れた薄暗い喫茶店の片隅にいた。
向かいの席には、目深に帽子を被った灰原静馬が座り、冷めたコーヒーを見つめている。迷宮の第二十四層で聞かされた「十二年前の非公式記録」の続きを話すためだ。
「俺たちが第三十四層相当まで降りた時、パーティーの物資は完全に底を尽きかけていた」
灰原の低く沈んだ声が、静かな店内に響く。
「当時の探索は、今のお前たちのように洗練されたものじゃなかった。時間軸付きの精密な地図なんてないし、三十秒で地上へ戻れる緊急帰還符のような便利な魔道具も、まだ開発の途上だった」
完全な手探りの暗闇。一歩進むごとに命を削るような、文字通りの決死行。
「その限界の状況で、俺はリーダーとして『撤退』の判断を下した。これ以上進めば、帰りの体力が持たないと分かっていたからだ。……だが、仲間の一人がそれに反対した」
灰原の目が、苦痛に歪んだ。
「そいつは優秀な魔法使いだった。三十五層への扉の前で、一度だけ振り返って笑ったんだ」
灰原の指が、冷めたカップの縁で止まった。
「『あと一回だけだ』。そう言って、俺の制止を振り切った。あの声が、十二年経っても耳から離れない」
結果は、語るまでもない。
未知のトラップと魔物の複合による暴力的な殺戮。灰原たちはその仲間を助けようとしたが、疲弊しきった身体ではどうすることもできず、目の前で彼が魔素の塵に変わるのを見ていることしかできなかった。
「俺たちは、逃げるようにして地上へ這い戻った。記録用の機材のほとんどを迷宮の底に捨ててな。結果として層数表示も帰還ログも証明できず、仲間の死という重すぎる事実だけが残った」
灰原はコーヒーカップから手を離し、蓮司をまっすぐに見据えた。
「真壁。お前の『死なない程度の失敗を繰り返してデータを取る』というやり方は、ある意味で理にかなっている。だが、忘れるな」
それは、過去の亡霊からの、血を吐くような警告だった。
「迷宮の底には、何度でも検証できる失敗と、『一度で取り返しがつかなくなる失敗』がある。命だけは期待値の式に入れるな。命をチップにした時点で、その勝負は降りろ」
重苦しい沈黙が落ちた。
美琴は言葉を失い、膝の上で強く拳を握りしめている。
蓮司はノートを開き、最初のページにある灰帽子の書き込みを見た。
「……あんたの教訓、確かに受け取った」
蓮司が静かに答えると、灰原はふっと肩の力を抜き、懐から一冊の手帳を取り出してテーブルに置いた。
「これは……?」
「俺たちが十二年前に残した『旧深層メモ』だ」
灰原は手帳を蓮司のほうへ滑らせた。
「三十一層以降の未踏域は、お前たちが今攻略している変動回廊とは比べ物にならないほど構造が狂っている。完全な地図は作れなかった。このメモに残っているのは、音、壁に書かれた警告文、魔素圧の異常、そして……『俺たちが選んで死にかけた危険な選択肢』の断片だけだ」
それは、正解を示す地図ではない。過去の探索者たちが命と引き換えに記録した、純度百パーセントの「ハズレの履歴」だった。
「俺はもう、下へは行かない。だが、お前ならこの『失敗の記録』を正しく使えるはずだ」
「……ありがたく使わせてもらう」
蓮司は手帳を手に取り、深く頭を下げた。
灰原はテーブルのボイスレコーダーを顎で示した。
「そいつも預けておく。必要なら、好きに聞け」
灰原が席を立ち、店を出て行くまで、二人は無言で見送った。
彼が去った後も、テーブルの上には預けられた年代物のボイスレコーダーだけが残されていた。
十分な沈黙の時間が流れた後。
蓮司はふぅ、と深く息を吐き出すと、手帳を丁寧に防水財布の横へしまい込み、そのままボイスレコーダーに手を伸ばした。
「……ちょっと、真壁。何してるの」
「いや。さっき聞きそびれた部分が、どうしても気になってな」
蓮司の目は、灰原の悲話を聞いていた時の真剣なものから、どこか血走ったような、ギラギラとした色に変わっていた。
彼は迷いなく再生ボタンを押し、早送り機能を使って録音データの「末尾」へと音声を飛ばす。
ノイズと玉音が響く中、女性の店内放送のアナウンスが微かに聞こえてくる。
『――本日は……ご来店いただき……誠に……』
『……全台……激……お楽しみ……』
先ほど第二十四層で聞いたのはここまでだ。だが、録音データはもう少しだけ続いていた。
酷いノイズの奥で、アナウンスの声が最後にこう告げるのを、蓮司の耳は決して逃さなかった。
『――当店は、二十二時……四十五分をもちまして……』
『……閉店と……させていただきます……』
プツン、と無情な音と共に、録音データは完全に終了した。
「…………っ!」
蓮司は無言で顔を覆い、天を仰いだ。
第十二層で見つけた「22:45」のデジタル数字。そして、この三十四層相当で録音された「閉店」のアナウンス。
二つの事実が完全に線で繋がり、蓮司の中で「絶対に抗えない絶対のルール」として確定した瞬間だった。
「……おい、測量士」
「な、なによ。急に怖い顔して」
美琴が身を引くほど、今の蓮司の表情は切羽詰まっていた。
「ルートだけじゃ足りねえ。到着時刻まで含めて組まないと、打つ前に閉まる」
あの店には、本物のパチンコ屋と同じように『閉店時間』がある。
もしそれが、迷宮の何らかのシステム(ゲートの閉鎖や環境魔素の致死化)と連動しているのだとしたら。
安全に辿り着くだけでは足りない。二十二時四十五分より前に、遊ぶ時間を残して着かなければならない。




