第19話:灰帽子からのDM
鳴神大迷宮、第二十四層。
風鎌鼬との雪辱戦を制した蓮司と美琴は、そのまま深度を伸ばし、第二十四層に点在する安全地帯の一つに到達していた。
周囲に魔物の気配はなく、魔素の流れも穏やかだ。蓮司は岩壁に背を預け、携帯端末の時計を確認した。
「……そろそろ時間だな」
「本当に来るの? その『灰帽子』って人」
隣で携帯食料をかじりながら、美琴が半信半疑の声を出す。
「来るさ。じゃなきゃ、わざわざこんな深層を待ち合わせ場所に指定しないだろ」
蓮司がDランクに昇格し、継続提供契約を結んだあの夜。匿名掲示板のダイレクトメッセージを通じて接触してきた古参ID『灰帽子』。
金属球と黒い樹脂片の出所について話がある。そう告げた彼が指定してきた合流地点は、地上のカフェでも探索者協会でもなく、この第二十四層だった。冷やかしの素人が来られる場所ではない。蓮司たちがここまで降りてこられる実力があるか試すと同時に、自分自身もまた、深層を単独で歩ける実力者なのだと暗に示している。
「待たせたな。今の二十三層は、昔よりずいぶんと足場が悪くなっている」
静かな足音と共に、回廊の闇から一人の男が姿を現した。
年齢は四十代半ばから後半。くたびれた厚手の革鎧に身を包み、名前の由来であろうツバの広い灰色の帽子を目深に被っている。武器らしい武器は見当たらないが、この深度まで単独で降りてきているにもかかわらず、その呼吸には一切の乱れがなかった。
「あんたが、灰帽子か?」
「ああ。……掲示板のハンドルネームで呼ばれるのは気恥ずかしいな。灰原静馬だ。昔は探索者をやっていた」
灰原と名乗った男は、帽子を少しだけ上げて美琴の胸元のタグを見た。
「Bランクの測量士が同行しているとはいえ、Dランクになったばかりでここまで来るとはな。お前たちが持ち帰った時間軸のログ……俺たちの時代にあれがあれば、結果は違っていたかもしれない」
「俺たちの時代?」
美琴が怪訝な顔をすると、灰原は静かに頷いた。
「俺は引退した身だ。十二年前にな」
十二年前。迷宮が出現してまだ間もない、手探りの攻略が続いていた黎明期。
「元Aランクパーティーのリーダー。当時の最前線を張っていた一人だよ。もっとも、俺たちの最後の記録は、協会の公式データベースには残っていないがな」
灰原は岩肌に腰を下ろし、蓮司に向かって手を差し出した。
「見せてくれないか。お前が第八層で拾ったという、あの金属球を」
「……ああ」
蓮司は防水財布の奥から、青い三本線が刻まれたパチンコ玉を取り出し、灰原の掌に落とした。
灰原はそれを指先で転がし、表面のロゴを食い入るように見つめた。その瞳の奥に、懐かしさと、ひどく苦い悔恨の色が浮かぶのを蓮司は見逃さなかった。
「間違いない。十二年前に俺が『下』で見た意匠と全く同じだ」
灰原は金属球を蓮司に返し、重い口を開いた。
「十二年前、俺たちは当時の未踏域だった階層を攻略していた。今はおそらく大規模な地形変動か崩落で塞がっている旧ルートだ。そこを通って、俺たちは現行の区分で言えば『第三十四層に相当する深度』まで到達していた」
「三十四層……!」
美琴が息を呑む。現在、探索者協会が公式に最深記録としているのは第三十一層だ。それを大きく下回る未知の領域。
「だが、お前たちの名前は歴史に残っていない」
蓮司が事実を指摘すると、灰原は自嘲気味に笑った。
「当時の機材は粗悪でな。三十層を越えたあたりから強烈な魔素の干渉を受け、層数を示す高度計と深度計が完全にイカれてしまった。さらに、ある理由で俺たちの帰還ログは欠落し、協会の審査を通らなかった。だから、俺たちが三十四層相当まで潜ったというのは、あくまで『非公式』の幻の記録に過ぎない」
灰原の声が、少しだけ低く沈んだ。
公式記録から抹消された、十二年前の真実。
「俺はその三十四層相当のエリアで、これと同じ青い三本線のマークを見た。そして……これを聞いた」
灰原は懐から、分厚い金属ケースに守られた年代物の録音機を取り出した。
今の洗練された探索デバイスとは違う、武骨な旧式のボイスレコーダーだ。
「深層の環境魔素の変動を記録するために回しっぱなしにしていたものだ。データが破損していて一部しか再生できないが、聞いてくれ」
灰原が再生ボタンを押し込む。
ガガガッ、ピーーッ、という酷い電子ノイズが響いた。
迷宮の奥底で吹き荒れる魔素の風音。それが数十秒続いた後、ふいにノイズの向こう側から、全く異質な『音』が浮かび上がってきた。
――ジャラジャラジャラッ……チャリン、チャリチャリンッ!
第十五層のゲート前で蓮司と美琴が聞いたのと同じ、無数の硬質な金属球がぶつかり合う音。
だが、距離が違う。反射で聞こえた反響音ではなく、明らかにその音の『発生源』のすぐ近くで録音された、生々しい喧騒だ。
さらに、その玉音の奥から、女性の声らしきアナウンスが微かに混じって聞こえてくる。
『――本日は……ご来店いただき……誠に……』
『……全台……激……お楽しみ……』
言葉の端々はノイズで潰れているが、それはどう聞いても、迷宮に棲む魔物の声でも、自然発生した環境音でもない。
現代の日本社会に存在する、とある娯楽施設特有の『店内放送』だった。
「……信じられない。本当に、迷宮の底に店があるっていうの……?」
美琴が顔を青ざめさせ、録音機を見つめる。
十二年前の幻の記録。公式には存在しない未踏域。灰原が背負っているであろう過去の重みと相まって、その録音データはひどくオカルト的で、背筋が寒くなるようなシリアスな空気を纏っていた。
普通の人間なら、この得体の知れない事実に恐怖するか、厳粛な気持ちで耳を傾けるだろう。
だが、その重苦しい空気の中で、ただ一人。
「おおっ……! マジか、このマイクパフォーマンスの声、絶対に新装開店の時のやつじゃねえか! しかもBGMのベースライン、あれ確変中のやつだろ!」
「……え?」
蓮司が、まるで贔屓のアイドルの新曲でも聞いたかのように、目をキラキラさせて身を乗り出していた。
「スピーカーの音割れまで本物だ。灰原さん、他に録音は残ってないのか!?」
鼻息を荒くして迫る蓮司。
しかし、目の前の灰原は全く笑っておらず、美琴に至っては「こいつの頭を今すぐ槍でカチ割ってやろうか」というような冷ややかな目を向けている。
「…………あ」
数秒遅れて、自分が致命的に空気を読み違えたことに気づいた蓮司は、サッと表情を取り繕った。
「い、いや。貴重な環境データだなと思って。うん」
咳払いをして誤魔化す蓮司だったが、灰原は咎める様子もなく、ただ静かに録音機の停止ボタンを押した。
「……いいさ。お前がその音に惹かれているのは、ダイレクトメッセージのやり取りで分かっていた」
灰原は帽子を深く被り直し、低く、這うような声で言った。
「だが、ここから先の話は、浮かれた気分のまま聞いてほしくない。俺がなぜ引退し、なぜこの録音が非公式の幻になったのか……お前たちには、それを知っておく義務がある」
その言葉に込められた重圧に、蓮司の背筋がスッと冷たくなった。
十二年前の三十四層で何があったのか。灰原の過去語りが、迷宮の深い闇の中で静かに始まろうとしていた。




