第18話:一歩だけ間に合う
鳴神大迷宮、第二十三層。
薄暗い回廊に、再び甲高い風切り音が響き渡る。
十日前、蓮司の右腕と肋骨を容易く粉砕し、彼に「身体スペックの限界」を突きつけた高速型魔物、『風鎌鼬』。
その凶悪な影が、回廊の奥から目にも留まらぬスピードで突進してくる。
「真壁、来るわ! 右前方、三メートル!」
後方に立つ美琴が、測量機材のモニターから目を離さずに鋭い声を飛ばした。
十日前、蓮司はこの声を聞いてから、「右から来る。なら左へ避けて籠手でいなそう」と『頭で考えて』身体を動かした。そして、そのほんの数コンマの思考のタイムラグのせいで、身体が追いつかずに重傷を負った。
だが、今は違う。
美琴の「右」という言葉が耳に届くか届かないかの瞬間、あるいは風鎌鼬の右前脚の筋肉が僅かに収縮したのを視覚が捉えた瞬間。
――ダッ。
蓮司の身体は、脳が「避けろ」と命令を下すよりも早く、自動的に左斜め前へと踏み出していた。
これが、十日間の療養期間中に地上の訓練場で延々と繰り返した『決め打ち』の成果だ。
特定の予兆に対して、特定の回避動作を完全に固定化し、反射として身体に染み込ませる。判断に要する時間をゼロにすることで、身体能力の劣る蓮司でも、強引に反応速度の帳尻を合わせたのだ。
ザッ、と激しい風の刃が蓮司のすぐ横を通り抜ける。
十日前なら肋骨をへし折られていた軌道。迷いを削ぎ落とし、事前入力されたコマンド通りに動いたことで、蓮司の身体は風鎌鼬の必殺の一撃に対して『一歩だけ』間に合っていた。
「……チィッ!」
だが、風鎌鼬のスピードはやはり異常だった。
完全に躱しきれたわけではない。すれ違いざまに放たれた二撃目の風の刃が、蓮司の右肩から脇腹にかけてを掠める。
ガリィッ! という硬質な音が回廊に響いた。
十日前の安物プロテクターであれば、間違いなくそのまま肉まで抉られていただろう。
しかし、蓮司が情報提供料を叩いて新調した『硬獣の革張り籠手』の強化版と、軽量かつ頑丈な防刃素材のジャケットが、その一撃の威力を大幅に殺していた。
浅い。皮膚の表面を切った程度の傷だ。
(防げる……! 生きてるぞ!)
致命傷を避け、その場に留まることができれば、そこから先は蓮司の独壇場だった。
蓮司の頭の中には、すでにノートに書き留められた風鎌鼬の全行動パターンがインプットされている。
「……そこだ」
突進を外した風鎌鼬が、壁を蹴って体勢を立て直そうとする。その着地の瞬間、四肢のバネがわずかに緩む〇・五秒の隙。
蓮司は新しい探索用ブーツで床を強く蹴り、一気に距離を詰めた。
無駄なフェイントは使わない。最短距離で振り抜かれた短剣が、風鎌鼬の急所である首の付け根に深く突き刺さった。
「ギャンッ……!」
短い断末魔を上げ、高速の獣は黒い灰となって霧散した。
ドロップ品の小さな魔石が、カランと冷たい石畳の上に転がる。
「……ふぅーっ」
蓮司は短剣を振り払い、肩で大きく息をついた。
右肩から少し血が滲んでいるが、ポーションを一本使えばすぐに塞がる程度の傷だ。
背後から歩み寄ってきた美琴が、信じられないものを見るような目で蓮司と魔石を交互に見比べていた。
「……倒した。本当に倒したのね」
「ああ。言っただろ、あの十日間は無駄じゃなかったって」
蓮司がニヤリと笑って魔石を拾い上げると、美琴は大きくため息をつき、タブレットのデータを操作しながら言った。
「勘違いしないでよね。この十日間で、あなたの筋力や動体視力が劇的に向上したわけじゃないわ」
彼女はあくまで測量士として、冷徹に事実だけを分析する。
「私の予兆が半拍早くなって、あなたは考える時間を削った。避けきれない分は装備で止めた。それで、やっと一歩だけ間に合ったのよ」
蓮司はきょとんとした顔で美琴を見た後、肩をすくめた。
「なんだっていいだろ。結果が同じなら」
「……は?」
「迷いをなくしたからとか、装備のおかげだとか、そんな細かいメカニズムの違いはどうでもいいんだよ。要は、あのクソ速い獣の攻撃に対して『当たり(勝利)』を引けるようになった。それだけだろ」
「ほら、次行くぞ。十日も足止め食らった分、今日はガッツリ稼がないと割に合わないからな」
美琴の緻密な分析を、まるでパチンコ台の演出の仕組みを語るオタクの話でも聞くかのように雑に聞き流し、蓮司はさっさと次の回廊へと歩き出す。
「……あなたって人は、本当にロマンがないわね」
美琴は呆れたように肩を落とし、その背中を追った。




