第17話:店は逃げない
鳴神大迷宮への進入をシステムでロックされてから、三日が経過していた。
蓮司の生活は、これまでにないほど退屈で、もどかしいものになっていた。右腕は分厚いギプスで固定され、折れた肋骨を保護するためのコルセットが胴体を締め付けている。
狭いアパートのベッドに寝転がりながら、蓮司は天井の木目を数えては大きなため息をついていた。
「十日……長えよ」
傷の痛みは治癒魔法のおかげでだいぶ引いているが、問題はそこではない。
今、この瞬間も、第三十七層にあるはずの『店』はそこで営業しているのだ。誰かが先に辿り着いて、大当たりの快感を味わっているかもしれない。あるいは、迷宮の構造変化によってルートが閉ざされてしまうかもしれない。
パチンコの新装開店の列から一人だけ外され、外で待たされているような凄まじい焦燥感。
「……あー、くそっ」
蓮司がベッドの上で身悶えしていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
のろのろと起き上がってドアを開けると、そこにはコンビニのビニール袋を提げた早瀬美琴が立っていた。
「見舞いに来てあげたわよ。……随分と暇そうね」
「暇だよ。店……いや、迷宮に行けないんだからな」
部屋に上がり込んだ美琴は、栄養機能食品とスポーツドリンクをテーブルに並べながら、呆れたように息を吐いた。
「先生にも言われたでしょ。あなたの身体のスペックじゃ、あの階層のスピードにはついていけない。焦っても仕方ないわ」
「それは分かってるが……どうすりゃいい。十日で急に筋肉がムキムキになるわけじゃあるまいし」
「そうね。短期間で身体能力を劇的に引き上げるのは不可能よ」
美琴はテーブルの向かい側に座り、真剣な顔で蓮司を見た。
「だから、考え方を変えるの」
「考え方?」
「あなたはこれまで、敵の予兆を見てから『どう避けるか』を頭で判断して身体を動かしていた。でも、そのプロセスじゃ二十三層の魔物には間に合わない。だから――『見てから考える』のをやめるのよ」
美琴が提案したのは、単純な解決策だった。
「特定の予兆……例えば、魔素が右に偏ったのが見えた瞬間、頭で処理する前に、あらかじめ決めておいた左斜め前への回避ステップを『自動で踏む』。つまり、反射神経の勝負ではなく、完全に動きを事前固定した『決め打ち』の反復訓練よ」
それから数日。
治癒魔法の効果でギプスが外れた直後から、蓮司の生活は激変した。
探索者協会の地上にある無料の訓練場。そこで蓮司は、美琴が計測器のライトを特定のパターンで光らせる合図に合わせ、ただひたすらに「決まった方向へ、決まった歩幅でステップを踏む」という地味な反復訓練を延々と繰り返していた。
「遅い! ライトが赤く光ったら無意識に右へ半歩よ! 考えてから動かない!」
「分かってるっての……!」
赤いライトが点く。右へ避けるはずが、蓮司は三回続けて左へ跳んだ。
「前の正解に引っ張られてる。今のあなたなら三回死んでるわ」
「もう一回だ」
蓮司は開始位置へ戻った。四回目、靴底がようやく右へ滑った。
さらに訓練の合間に、最初の情報提供料で遊技に回すつもりだった余剰金の使い道を変更した。
軽量でグリップ力の高い高級な探索用ブーツ。そして、二十三層の魔物の攻撃を少しでもいなせるよう、右腕の籠手をさらに装甲の厚いものへと新調した。
次に同じ攻撃を食らっても、データを持ち帰れるようにするためだ。
そしてもう一つ、蓮司の生活で大きく変わったことがある。
夜勤明けに安売りのカップ麺を流し込み、数時間の仮眠で迷宮へ向かうという荒んだ生活サイクルを、完全に改めたのだ。
肉と野菜をバランスよく摂り、最低でも七時間の睡眠を確保する。
「……おいしいか?」
アパートで自炊した野菜炒めを口に運びながら、蓮司は不思議そうな顔をした。
彼が急に健康や自己研鑽の美徳に目覚めたわけではない。
「……なんだ。睡眠削って無理するより、ちゃんと寝て飯食った方が、回復薬の消費量が減るじゃないか」
そう、究極のコスパ計算だった。
体調が万全であれば、訓練の疲労も、迷宮での軽いダメージも、高価なポーションに頼らずとも自然治癒で補える。結果的に、それが一番「安上がりで効率のいい回復手段」であると気づいたのだ。浮いた金は装備のメンテナンスや、いずれ辿り着くであろう『店』での軍資金に回せる。
そして、十日間の潜行禁止期間が明ける、解禁日の朝。
午前七時。探索者協会・外縁支部の中継ゲート前には、誰よりも早く準備を整えた蓮司の姿があった。
新しいブーツの靴紐を固く結び、右腕の分厚い籠手の感触を確かめている。寝不足のクマは消え、筋肉の張りも十日前とは比べ物にならないほど良い状態に仕上がっていた。
「……随分と早いのね。気合いが入ってるじゃない」
後ろから声をかけてきた美琴は、蓮司のすっきりとした顔つきを見て少し驚いたように目を丸くした。
「ああ。待ちくたびれたぜ」
蓮司は首をポキリと鳴らし、ニヤリと笑った。
「健康的な生活ってのも案外悪くないな。身体の調子がいいとポーション代が浮く。最高の節約術だ」
「……あなたって人は、本当にどこまでも計算基準がズレてるわね」
呆れたようにため息をつく美琴だったが、その表情には頼もしそうな響きが混じっていた。
超人になったわけではない。純粋な戦闘力は相変わらず低いままだ。
しかし、今の蓮司は、十日前の自分とは明らかに違う「負け方」の準備を整えていた。
「行くぞ、測量士。あの速い獣に、もう一回リベンジだ」
店は逃げない。
だが、待たされた分だけ、パチンカスの執着はより深く、重く研ぎ澄まされているのだった。




