第16話:知っていても避けられない
鳴神大迷宮、第二十三層。
薄暗い回廊に、突風のような甲高い風切り音が響き渡っていた。
蓮司の目の前を、目にも留まらぬ速さで駆け抜けていく獣の影。第二十三層に出現する高速型魔物、『風鎌鼬』だ。体長は一メートルほどと小柄だが、その四肢には見えない風の刃が纏いついており、すれ違いざまに鋼鉄の鎧すらも切り裂くという凶悪な特性を持っている。
「真壁、来るわ! 右斜め前方、四メートルの位置で風属性の魔素が急速に圧縮されている!」
後方の安全な位置から、美琴が測量機材越しに鋭い声を飛ばす。
「分かってる!」
蓮司は短剣を低く構え、防水ノートの記憶を頭の中で展開した。
この数日間、蓮司は何度もこの風鎌鼬と遭遇し、安全な距離からその挙動を観察し続けてきた。魔素の圧縮から突進までのタイムラグは〇・八秒。飛びかかってくる軌道は常に直線的で、前脚を交差させるようにして放たれる風の刃の射程は約一・五メートル。
データは揃っている。予兆も完璧に把握している。
敵の右前脚の筋肉が僅かに収縮し、魔素が爆発的に膨張した。
(来る。右からの斬り下ろしだ。左へ半歩踏み込んで、籠手でいなす――!)
蓮司の「頭」は、完全に正解のプロセスを導き出していた。
予兆を視覚で捉え、脳で判断し、筋肉に指令を送って身体を動かす。これまでの階層の魔物であれば、そのプロセスで十分に間に合っていた。
しかし。
「――ガッ!?」
蓮司が左へ踏み込もうとした瞬間、すでに視界の端には、風鎌鼬の鋭い爪が迫っていた。
速すぎる。
脳が「避けろ」と指令を出してから筋肉が収縮し始めるまでの、ほんのわずかなコンマ数秒のタイムラグ。その生身の肉体の限界とも言える隙間を、第二十三層の魔物のスピードが完全に上回っていたのだ。
ザシュッ、という嫌な音と共に、蓮司の右腕と脇腹に熱い痛みが走った。
硬獣の革張り籠手ごと肉を裂かれ、そのままの勢いで肋骨に重い衝撃が突き抜ける。
「ごふっ……!」
蓮司の身体は大きく宙を舞い、石造りの壁に激突して崩れ落ちた。
「真壁!」
悲鳴のような美琴の声が響く。彼女は即座に槍を構えて前へ飛び出し、追撃を仕掛けようとした風鎌鼬の鼻先を鋭い突きで牽制した。
魔物が一瞬怯んだ隙に、美琴は腰のポーチから発煙筒を取り出し、床に叩きつける。もうもうと上がる白い煙の中で、彼女は蓮司の襟首を掴んで強引に引きずり起こした。
「立って! このまま緊急退避ルートに走るわよ!」
「あ、ああ……くそっ……!」
右腕から血を流し、脇腹を押さえながら、蓮司は激痛に顔を歪めた。
自分の判断が間違っていたわけではない。データに狂いがあったわけでもない。
情報を持っていることと、それに「身体が対応できること」は、全く別の次元の話なのだ。
正解を知っていても、身体が間に合わない。
* * *
探索者協会の医療室。
強い治癒魔法の光を浴びた後、蓮司は上半身にぐるぐると包帯を巻かれた状態で、パイプ椅子に腰掛けていた。
「右前腕の深い裂傷と、肋骨の二箇所骨折。命に別状はないが、まともに動かせるようになるまでには時間がかかるぞ」
白衣を着た初老の専属医師が、レントゲンの画像を見ながら厳しい声で告げた。
「治癒魔法を使ってもこれだ。生身の筋肉と神経の反射速度が、あの階層の魔物のスピードに全く追いついていない。君の今の身体能力のまま再び同じ状況になれば、次は間違いなく致命傷――死ぬことになるぞ」
それは、探索者としての一つの限界宣告に近い言葉だった。
美琴の測量と予兆伝達があっても、蓮司の身体が反応できなければ意味がない。付き添いで隣に立つ美琴も、黙って検査結果を見ていた。
だが。
「……イテテ。で、先生。次はいつから潜れるんだ?」
「…………は?」
蓮司は肋骨を押さえながら、至って平然とした顔で医師に尋ねた。
医師は自分の耳を疑うように目を丸くし、美琴も「信じられない」という顔で蓮司を見た。
「い、いつから潜れるかだと? 君は私の話を聞いていたのか。今のまま潜れば死ぬと言ったんだぞ!」
「聞いてたよ。身体が追いついてないんだろ。でも、傷が塞がらないことには次の対策も試せないじゃないか。何日休めば走れるようになる?」
蓮司の頭の中には、恐怖も、才能に対する絶望もなかった。
あるのは「どうやってこの負け(ハズレ)を精算して、次の回転を回すか」という、純粋な試行回数への執着だけだ。彼にとって怪我の痛みなど、パチンコで大負けした時の財布の痛みに比べれば、ただの物理的な不便でしかない。
「馬鹿を言うな! 最低でも十日間は絶対安静だ。迷宮への進入も協会権限でロックさせてもらう。その間に、自分の無謀さをよく反省することだな!」
医師は半ば怒鳴るように言い捨てると、カルテを叩きつけて奥の診察室へ引っ込んでしまった。
「十日か……痛えな、本当に」
蓮司は肋骨の痛みではなく、丸十日も店への道のりがストップすることに心底うんざりしたようにため息をついた。
「あなたねえ……」
美琴がこめかみを押さえながら、疲れた声で言う。
「先生の言う通りよ。あなたの頭の回転と記録の正確さは認めるけど、身体のスペックが限界を迎えているのは事実だわ。十日間、ただ寝て過ごす気?」
「そうは言ってねえよ。どうにかして『身体を追いつかせる方法』を考えなきゃならないだろ」
蓮司は包帯だらけの腕で、懐の防水ノートをポンと叩いた。
十日間。
その十日で、知識を身体へ移すしかない。




