第13話:噂が値上がりする
鳴神大迷宮、第十八層。
公式補助地図の試験運用が始まって三日目、二人の端末へ緊急通知が入った。
『十四時二十二分、中央扉は危険』という蓮司の原文だけを見た別パーティーが、それを終日固定の情報だと誤読し、周期の変わった中央扉を避けて毒霧へ入りかけたのだ。負傷者は出なかったが、公開データは一時停止になった。
「言ったでしょ。整理されていない失敗ログは、現場ではノイズになるって」
美琴は安全地帯の壁にタブレットを立て、時刻、魔素相、情報の有効期限を一つの画面にまとめ直した。
「俺のノートが間違ってたわけじゃない」
「読んだ人が間違えるなら、地図としては不合格よ」
蓮司は反論しかけ、毒霧の前で止まったというパーティーの報告を読み返した。それから黙って、原文の横へ『三十分周期・単独参照禁止』と書き足した。
以後、美琴が予兆と有効期限を整理し、蓮司が物理的な結果を追記する。二人の『時間軸付きログ』は、第十八層、第十九層でも着実に更新された。
「痛い目を見ずに帰れるってのは、本当に素晴らしいな」
地上へと帰還する中継ゲートの中で、蓮司はしみじみと呟いた。
手元の防水ノートはすでに二冊目に突入している。毎日のように迷宮へ潜り、確実に情報を持ち帰るその生存能力と実績は、ついに探索者協会からも正式に評価されることとなった。
真壁蓮司、Dランク昇格。
Fランクの底辺でくすぶっていた頃からは考えられないスピード出世だ。だが、彼自身に英雄的な強さが身についたわけではない。生身の腕力や魔力は相変わらず平凡なままであり、あくまで「変動深層における情報の集め方と撤退の判断」が評価された結果だった。
「これで、単独で潜れる深度の制限も緩和されたわね。まあ、今の状態なら私と組んで動いた方が効率はいいでしょうけど」
美琴がゲートの転送光の中で言う。
「ああ。予兆のカンニングができるのはデカいからな」
蓮司が気楽に返した直後、彼の携帯端末が短く震えた。
画面を見ると、探索者協会の攻略情報課、日下部澪からの呼び出しメッセージだった。
* * *
協会支部の応接室。
革張りのソファに座った蓮司と美琴の対面には、いつもの日下部だけでなく、パリッとした高そうなスーツを着た男が座っていた。
「初めまして。私、大手探索クラン『プラチナム』の後方支援部門の者です」
男は愛想のいい笑みを浮かべ、名刺を差し出した。
「単刀直入に申し上げましょう。お二人が第十六層以降で作成されている『時間軸付きログ』。あれを、我がクランで独占的に買い取らせていただきたいのです」
「独占……買い取り?」
蓮司が眉をひそめる横で、男はカバンから分厚い契約書の束を取り出した。
「はい。現在、お二人のデータは協会の公式補助地図として試験採用されていますが、それはあくまで広く一般に公開されるもの。我々は、その精緻なデータを他クランより先に、そして排他的に使用したいのです。もちろん、対価は弾みますよ」
男が提示した金額のケタを見て、蓮司の心臓が大きく跳ねた。
それは、蓮司が週の半分を費やしている倉庫夜勤の年収を、一括で軽く超えるような爆発的な金額だった。
(なっ……! なんだこの額。四円で計算しても、丸一日打ちっ放しを三ヶ月続けても絶対にパンクしない額だぞ……!)
パチンカスとしての脳内電卓が弾け飛びそうになる。
この金があれば、最深部に辿り着いた時の軍資金なんてレベルではない。高性能な防具を買い揃え、毎日のポーションを最高級品に変え、それでもなお遊技資金が余って腐る。
喉がゴクリと鳴った。美琴も、提示された額の大きさに少しだけ息を呑んでいるのが分かった。
「どうでしょう。悪い話ではないと思いますが」
男の自信に満ちた言葉。
蓮司は契約書に手を伸ばしかけ――ふと、その文面の一文に目が止まった。
「……ん? ちょっと待ってくれ。この『甲の指示するスケジュールに従い、指定階層の観測業務を優先する』ってのはどういう意味だ?」
「ああ、それは独占契約に伴う当然の付帯条件です」
男はにこやかに答えた。
「我々が多額の資金を支払う以上、お二人には我々のクランが攻略を進めたい階層のデータを優先して取っていただきたい。また、他への情報漏洩を防ぐため、勝手な単独潜行や、協会の公式地図へのデータ提供はストップしていただきます」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、蓮司の中で煮えたぎっていた欲望の炎が、まるで水を被ったようにスッと鎮火した。
「……つまり、俺が行きたい時に、行きたい階層へ行けなくなるってことか?」
「業務に支障が出ない範囲での休暇は認めますが、基本的には我々の管理下で動いていただくことに――」
「じゃあ、やめだ。この話はなかったことにしてくれ」
蓮司は差し出されていた契約書を、あっさりと男のほうへ押し返した。
「なっ……! 真壁君、正気ですか!? この金額ですよ!?」
男が目を剥いて驚くのも無理はない。Fランク上がりの底辺探索者が一生かけても稼げないような額を、秒で蹴り飛ばしたのだから。
「金は魅力的だがな、俺には行かなきゃならない場所があるんだよ。他人の都合でスケジュールを縛られて、足止めを食らうのだけは御免だ」
朝一の抽選に並びたいのに、他人の都合で店に行けなくなる。蓮司にとって、それはどんな高額な報酬をもってしても割に合わない最悪の拘束だった。
隣で美琴が「あなたらしいわね」と小さくため息をつきつつも、どこかホッとしたような表情を見せた。彼女にとっても、自分の地図作りを特定の企業に縛られるのは本意ではなかったのだろう。
「……残念です。お二人とも、考え直す気は……」
「ありません。お引き取りください」
日下部が、すかさず冷徹な声で割って入った。
彼女はスーツの男を退出させると、ふぅ、と息を吐いて蓮司たちに向き直った。
「協会には、あなたたち宛ての契約提案を先に拒絶する権限がありません。独占条件を隠したまま外で署名させられるより、ここで全文を確認してもらう必要がありました」
「日下部さん、最初からあの条件を知ってたのかよ」
「ええ。だから同席しました。……こちらにも、比較できる契約を用意しています」
日下部が新たに出してきたのは、協会との『非独占の継続提供契約』だった。
「企業独占のような莫大な一時金は出せませんが、あなたたちのデータを協会の公式地図へ継続的に組み込む対価として、毎月安定した情報提供料をお支払いします。もちろん、潜行のスケジュールも階層も、すべてあなたたちの自由です」
提示された額は、先ほどの企業の額には遠く及ばない。
しかし、蓮司が倉庫の夜勤を辞め、探索の合間の身体の休息と、純粋な『遊技』だけに時間を全振りしても、十分に生きていけるだけの固定給だった。
「……最高じゃないか。それで頼む」
蓮司は今度こそ迷いなく、契約書にサインを書き込んだ。
都市伝説の噂を追って蓄積したログが、ついに蓮司の生活を支える基盤へと変わった。
* * *
夜。アパートの狭い自室で、蓮司はベッドに寝転がりながら携帯端末を操作していた。
明日からはもう、眠い目をこすって倉庫の仕分けバイトに行く必要はない。日下部が手配してくれた正式収入のおかげで、体力と時間のすべてを迷宮の最深部を目指すことだけに使える。
「さて、明日の第十九層の予習でもしておくか……」
探索者専用の匿名掲示板アプリを開いた時だった。
画面の上部に、ポップアップの通知が光った。
『ダイレクトメッセージが一件届いています』
蓮司が怪訝に思いながら通知をタップすると、簡素なメッセージ画面が開いた。
そこに表示されていた送り主の名前を見て、蓮司の指がピタリと止まる。
【灰帽子】
『お前が協会に持ち込んだという、青い三本線の入った金属球。そして黒い樹脂の欠片。……その出所について、話がある』
灰帽子。
それは、蓮司が「最深部に激熱の店がある」という噂を見たスレッドに、『取り返しがつく失敗だけを繰り返せ』という短い警告を書き残していた古参のIDだった。
都市伝説の噂が、明確な情報価値を持って値上がりしたその夜。
液晶の向こう側から、最深部の謎を知るかもしれない過去の亡霊が、蓮司に向かって静かに接触を図ってきていた。




