第十九・五話③:すみれ色の夜明け
気がつけば私の身体はふわふわと浮いていた。
自分のことは何も分からない、名前すら思い出せない。
どこから来たのか、どこへ行こうとしてるのかも。
ただ、胸の奥に深く突き刺さるような、辛くて暗い気持ちが心の中に佇んでいるみたいだった。
辺りは一面、雨が降っていた。
雨に打たれているはずなのに、身体が濡れた感覚はどこにもなかった。
けれど、時折前髪から滴る雫が、朱く染まっている。
私は通りの店のガラスに映る自分の姿を見て、大きなショックを受けた。
そこには額から血を流している女の子……私が映っていた。
その自分の姿を見た時、わずかに記憶が戻る。
「そうだ……飛び降りたんだ……」
私は辛くて、苦しくて、悲しくて、飛び降りた。
そこまでは思い出せた。だけどそれ以上を思い出そうとすると、呼吸が荒くなり、頭が痛くなってくる。
私はもう一度、ガラス越しに自分の姿をじっと確認してみた。
「浮いてるし、血も出てるし……これって、もう幽霊だよね……」
そうか、私、死んじゃったんだ……。
自分で飛び降りておきながら、その現実にショックを受けた。
それでも、何も思い出せないなら、悩み続けるよりはいいのかもしれない。……今は、そう思うことにした。
「さっきは呼吸が荒くなったけど、死んでるってことは、息をしてないってことなのかな……」
ふと気になって、私はガラスに「はぁっ」と息を吹きかけてみた。
ガラスはぼんやりと白く曇って、すぐに雨の水滴に洗い流されてしまった。
私は土砂降りの雨の中、浮いている身体を利用して色んな所をすり抜けていた。
そんな時、玄関の扉に手をかけたまま、俯いている男の子を見かけた。
なんだろう……とっても悲しそう。この男の子ならきっと、驚かせるのも簡単……かも?
「私、幽霊だから誰かを驚かせないと成仏できないんだよね……」
そう自分に言い聞かせて、私は男の子の背後にそっと回る。
よし、勢いをつけて驚かせてやろう。そう思った、その時だった。
男の子の肩が、微かに震えている。
「……泣いている……の?」
男の子は私の気配に気づく様子もなく、そのまま家の中へと入っていった。
ふらつく足取りで階段を登っていく背中が、なんだか放っておけなくて、私は吸い寄せられるように後を追った。
「あの……大丈夫?」
私の声なんて届くはずもなく、男の子は部屋に入ると、無造作に服を脱ぎ捨て始めた。
「わっ……!? ちょ、ちょっと!」
慌てて両手で目を覆ったけど、指の間から彼の細い背中が見えてしまって……。
……びっくりした。男の子の裸、見ちゃった……。
彼はそのまま部屋着に着替えると、逃げ込むように布団を頭から被った。すぐに静かな寝息が聞こえてきたけど、眠りながらもその瞳からは涙が溢れていた。
「私も色々考えて疲れちゃったし……ちょっとだけなら……」
私はそっと布団の端をめくると、まずは片足だけを入れてみた。
「幽霊だし……大丈夫。……あした驚かせよう」
そして、ゆっくりと身体を布団の中に預けた。
布団の中は、二人いるからなのか、驚くほど温かく感じた。
――
翌朝。
「って、よく考えたら、同じくらいの年の男女が布団に入ってるだなんて。私ったら何考えてるのー?」
いくら疲れてるとはいえ、見知らぬ男の子の布団に入るなんて。
私が一人顔を赤らめていると、男の子が飛び上がるように上体を起こした。
よし、驚かせるチャンス。ここは耐えに耐えて、一気に仕掛けよう。
「あの……えーと……」
男の子が私に気づいた。よし。ここは精一杯演出して――。
「う、ら、め、し、やぁ~……」
決まったー。これで、私も成仏……って、成仏ってどうやるんだろう?
「誰だよ」
……え? 驚くどころかなんでそんなに冷静なの?
「ふぇ……? ……ふえええぇーん!」
びっくりした。なんでなんで? こっちが心臓止まりそう。
私は少しだけ恥ずかしくなって、思わず泣いてしまった。
「ぷっ……ははっ」
「なんで笑うんですか!」
「いや、なんで泣くんだよ」
男の子は元から幽霊が視える体質のようで、血を流しただけの私じゃ怖くもなんともないらしい。
私は正直に、自分の記憶が全くないということを告げると、彼はその原因を探しに行こうと提案してくれた。
そして、名前のない私に『レナ』と名付けてくれた。
男の子の名前は瀬戸湊くん。
彼と話していると、なんだか辛い気持ちも、悲しい気持ちも忘れるくらい不思議と笑顔で話せていた。
――
私は静かにその時を待っていた。
ふっふっふ。みなと。
今日こそは、絶対にみなとを驚かせてみせるからね。
いつもは失敗ばっかりだけど、油断をしている今がチャンス! 私は虎視眈々と、驚かせるタイミングを狙った。
ある日は、みなとが顔を洗って顔を上瞬間、鏡にスッと姿を映してみた。
「みなとぉ……うらめしやぁ~~……」
「……おう、レナ、おはよ」
またある時は、水場にこっそりと忍び込んで待ち伏せした。
……ガラッ。
「みなとっ! うらめしやぁーっ!」
「お、おう、レナ……ここ風呂場だぞ」
「……え? ……え? キャーーーーーッ!」
さらにある時は、狭い場所に身を潜めてみた。
……ガチャ。
「今度こそ……みなとー! うらめしやぁーっ!!」
「……お前トイレで何やってんだ?」
「……ふぇ? ……い、イヤーーーーーッ!」
「絶対わざとやってるだろ……」
ち、違うもん……。ぐすっ。
でもなんで、みなとはこんな姿の私を怖くないんだろう?
鏡に写る女の子。緑色のブレザーに、黒髪のロングヘア。額から血を流した色白の女の子。
「……迫力が足りないのかなぁ……?」
私は鏡の前で怒った顔をしたり、じっとりと見つめてみたり、恐怖で慄いている顔をしてみた。
「さっきから何やってんだ、レナ」
「ひゃあぁぁーーーっ!」
……もう、私の方が逆に驚かされるなんて、屈辱すぎる……!
よし、こうなったら――。
私は夜、みなとが寝静まるのを待った。
みなとは私が来てから、自分は床に布団を敷いて寝てくれている。
私の作戦は至近距離ドアップ大作戦。
みなとに考える暇もないほどの、超至近距離で一気に驚かせちゃうんだ。
私は音もなく布団に潜り込んで、みなとの背後に回る。
スタンバイオッケー。後はみなとを起こして――。
ゴロン。
その時、みなとが寝返りを打った。
顔と顔が触れ合いそうな、とんでもない至近距離。
ち、近い近い! ……みなと! 近いってばぁ~!
はわわ、みなとの寝息が私の顔に……っ!
私は驚かせるのも忘れて、慌てて布団から飛び出した。
びっくりしたー……。本気で死ぬかと思った……。
って、私死んでるんだっけ?
……結局、みなとを驚かせる作戦は今日も大失敗に終わった。
怜奈番外編① 完




