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第十九話:天色の物語

「だめ、みなと……お願い……ダメーーー!」


 剥き出しの拳が烏丸に叩きつけられる、その寸前だった。

 レナが俺の身体を強く抱きしめ、必死にその動きを止めた。


「お願い……もう、いいから……っ」


 レナがすがるように俺の顔を見上げる。


「もう……大丈夫だから……。みなと、もういいの……っ」


 その瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。

 レナの悲痛な訴えを前に、俺は振り上げた拳を、ゆっくりと下ろした。


「ミナト、よく耐えたね。……えらいじゃん」


「ほら、見てみ。コイツ、もう戦意喪失して腰抜けとんで」


 ミチルとえみが呆れたように見下ろす先で、烏丸は白目を剥き、無様に気絶していた。


「……瀬戸くん、なの……?」


 不意に、震える声が俺を呼んだ。

 宮坂先輩だ。彼女に名前を呼ばれた瞬間、俺を抱きしめていたレナの手が、ビクッと激しく震えた。


「ごめんね……私のせいで……。瀬戸くん、ごめんなさい……っ」


 先輩は手すりにしがみついたまま、顔を覆って咽び泣いている。

 彼女は、目には見えないはずの俺の存在を感じ取っているようだった。


「瀬戸くんが入院してるって聞いた時……本当は一刻も早くお見舞いに行きたかったの……でも、烏丸先輩に『他の男の所にいくな』って言われちゃって……ううん、言い訳だよね」


 ……そうだったのか。先輩は、俺のことを見捨てたわけじゃなかったんだ。


「先輩。……俺の方こそ、すみませんでした。俺が情けないせいで、先輩にまでこんな思いをさせて……」


 きっと、この声は彼女には届かない。

 けれど俺は、精一杯の、ありったけの声を振り絞って、泣きじゃくる先輩へとそう告げた。


「ドクンッ!」


 その瞬間、最大級の衝撃が心臓を突き上げた。

 あまりの激痛に視界が真っ白になり、俺はその場に膝をつく。


「みなと!」

「「ミナト!」」


 三人の悲鳴が重なる。ミチルが俺の肩を掴み、必死の形相で叫んだ。


「ミナト、もう無理だって! 早く戻らないとマジで手遅れになる、もうヤバいって!」


 ああ……確かに、もう限界だ。魂が霧のように霧散していく感覚が、はっきりと分かる。


「そや、もうやり残したこともないやろ? 戻るなら今や。これ以上遅れたら、どんな災難が降りかかるか分からへんのやから!」


 えみも涙ながらに忠告してくる。だが、俺の心には別の未練があった。


「……俺は、元々……視える体質だったんだ」


「それは、知ってるけど……」


「だけど、霊の声まで聞こえたことはなかった。……今、身体に戻ってしまったら、みんなの声が聞こえなくなる。それが、正直……寂しいんだ」


 俺の弱音に応えるように、胸に顔を埋めていたレナの手が、ぎゅっと力強く握り直された。


「……バカ。見える体質ならさ、あーしら、いつでもそばにいてあげるから。だから、寂しくなんてないって」


 ミチルが強がりの笑顔を見せるが、その瞳には大粒の涙がたまっている。


「ほんまやで。ウチ、ミナトのそばから絶対離れへんから」


 えみも泣きじゃくりながら、俺の腕にしがみついた。


「レナ……」


 俺が名を呼ぶと、レナは俺の胸からゆっくりと顔を上げた。

 そして、愛おしむように俺を見つめ、そっとその手を離した。


「みなと。……寂しいけど、でも。今みなとが戻らないと、みなとのお母さんは……もっと、もっと寂しいと思う」


 レナの真っ直ぐな言葉に、ミチルもえみも、静かに、深く頷いた。


「……だから、また……絶対に会えるから」


 レナは声を詰まらせながら、大粒の涙をこぼして微笑んだ。


「あーしらが言うのもなんだけどさ。……生きてよ、ミナト」


 ミチルの真っ直ぐな言葉に、俺はハッとして顔を上げた。


「そやで。生きられへんかったウチらやからこそ、はっきり言える。……生きてや、ミナト」


 えみの、魂を振り絞るような願い。

 そうだ。生きたくても、どうしても生きられなかった彼女たちの分まで。

 そして、病院で俺の手を握り、ずっと待ち続けてくれている母さんのためにも。


「……分かった。今まで、本当にありがとうな」


「何言ってんの。お礼を言うならあーしらの方だって。カイトを救ってくれてありがとう。……そして、あーしを救ってくれて」


「ミナト、ウチも同じや。ミナトがおらんかったら、ウチはいつまでも自分を責め続けてたんや」


 二人の感謝が、温かな光となって俺を包み込んでいく。


「にゃー……」


 不意に足元に柔らかな感触がした。三毛猫のレンだ。


「ひよりさんもお礼を言っているんじゃない?」


 ミチルの言葉に、胸が熱くなった。


「わたくしからも、心からお礼を申し上げますわ」


 凛とした声でそう告げたのは、由衣だった。


「由衣まで、来てくれたのか」


「ええ。そちらのレンさんが、わたくしをここまで案内してくださったのですわ」


 俺はしゃがみ込み、レンの小さな頭を優しく撫でた。


「みなと……。本当に……本当に、ありがとう」


 レナが嗚咽を漏らしながら、祈るように俺の手を握りしめた。


「また……会えるよな。……絶対だぞ」


 俺の問いに、レナも、ミチルも、えみも、由衣も。

 そこにいる全員が、涙を流しながら、力強く、何度も大きく頷いた。


「みんな――絶対にまた会おう!!」


 俺が目一杯に手を振ると、遠ざかっていく彼女たちもまた、千切れるほどに手を振り返してくれた。


 戻ると心に決めた瞬間、俺の魂は目に見えない渦に呑み込まれるように、一気に、そして深く自分の身体へと吸い込まれていった。


――


「……ッ、ピッ。……ピッ、ピッ、ピッ!」


 静まり返っていた病室に、俺の身体に取り付けられたモニターの電子音が、心拍の再開を告げるように激しく鳴り響く。


「み、湊……? 湊っ!」


 母さんがすがるように握りしめていたその手を、俺は……微かな力で、けれど確かな意志を持って握り返した。


「湊! 先生、先生っ! 湊が、湊が今……!」


――


 一方その頃、屋上に残されたレナたち。


「みなと……みなと……。みなと、行っちゃった……っ」


 膝をつき、声も上げずに泣き崩れるレナ。その細い肩に、ミチルがそっと手を置いた。


「あのさ、レナちゃん。……アンタも、そろそろ戻らないとね」


 その言葉に、レナは驚いたように顔を上げた。涙で濡れた瞳を大きく見開く。


「え……? 私、も……?」


 困惑するレナに、ミチルは悪戯っぽく微笑んで言葉を続けた。


「最初に会った時、言ったでしょ。あーしと同じようなもんかな、ってさ」


 レナの脳裏に、あの日の記憶が蘇る。


『あーしと同じようなもんなのに。』


 そうだ。ミチルは確かにそう言っていた。


 みなとは生霊として、いろんなものに触れることができた。

 でも彼女は、食事もできなかったし、何にも触れられなかった。


 ……それはきっと。


 自分が、純粋な『幽体離脱』の状態だったからだ。


 そう思うと、すべてが腑に落ちた。


「私も……戻れるの……?」


 問いかけるレナに、えみも大きく、力強く頷いた。


「戻れるよ。レナっちも、これからはつまらん男に騙されんように気ぃつけるんやで。……あ、ミナトはウチのもんやから、そこは譲らへんけどね!」


 茶化すようなえみの言葉に、ミチルも声を上げて笑う。二人の明るい笑顔が、レナの不安を温かく溶かしていった。


「みんな……ありがとう……っ」


 再会の約束と感謝を胸に。

 レナもまた、眩い光に包まれながら、自分を待つ身体へとゆっくりと溶け込んでいった。


――


 それから、約一年後。

 俺は今、あの交差点に立っている。


 かつて、大事な人に告白して、フラれて……そして事故に遭ったあの場所で、今は大事な人を待っている。


「ミナト、ちょっと聞いてよ! カイトったらさー、隠れてエッチな本読んでたんだよ? マジ信じらんないんですけどー」


 耳元で響く、聞き慣れたミチルの呆れ声。


「まぁ、まぁ。男には色々あるもんだからさ、許してやれよ」


「ミナトはウチがおるから、そんなもんいらんよな? ほら、ウチの健康的なナイスバディ。どう?」


 えみが、宙に浮きながら悪戯っぽくポーズを決める。


「ふふっ。相変わらず、お下品なお話しかされないのですね。少しは教養をたしなまれてはいかがでしょう?」


 由衣が、長いツインテールを揺らして涼やかに笑う。


「うっさいわ! このガキンチョ!」


「なっ! 誰がガキンチョですか! 誰が!」


 言い合う彼女たちの足元では、三毛猫のレンが喉を鳴らして俺の脚にまとわりついていた。


 やれやれ。今日もまた、賑やかな一日になりそうだ。


「……だけど。なんでミナトには、まだあーしらの声が聞こえるんだろね?」


「ウチらはその方がありがたいけど、不思議やね」


 なぜ彼女たちの声が届くのか、俺にも正確な理由はわからない。


「もしかしたら……一度、深いところで干渉し合った者の声だけは、聞こえるようになっているのかもな」


「つーかさ、ミナト。まさかレナのこと、気づいてなかったなんてねー」


 ミチルが呆れたように笑う。


「仕方ないだろ。俺だって、いっぱいいっぱいだったし」


「ミナト、自分が幽体離脱してるんも気づいてないんやもん。鈍感やし、しゃあないか」


 えらく好き勝手言ってくれるじゃないか。


「それでも、その鈍感さのおかげでわたくしたちは救われたかもしれませんので」


 由衣、お前はいい奴だよ。


 あれから、烏丸先輩とその取り巻きたちは、裏の顔がすべて白日の下に晒されて退学処分となった。


 宮坂先輩は、あの呪縛から解き放たれ、今は大学受験に向けて前向きに頑張っていると風の噂で聞いた。


 そして――。


 目の前の歩行者信号が、鮮やかな青に変わる。


 今度は下を向いたりせず、しっかりと前を見据えて真っすぐに歩きだした。


 その信号の下には、一人の少女が立っていた。


「……リハビリ、結構かかっちゃった」


 照れくさそうに笑うレナの姿。


「大丈夫だ。俺だって同じようなもんだよ」


「額の傷……完全には治らないって言われちゃった」


「大丈夫。俺は全然気にしないから」


 俺の言葉に、レナは少しだけ俯いて、喜びを噛みしめるようにひとしずくの涙を流した。

 そして、顔を上げて俺に満面の笑みを見せる。


「ただいま……? それとも、おかえり……かな?」


 問いかけられて、俺は少しだけ考えてから答えた。


「――やっと、会えたな。レナ」


 彼女は、世界で一番幸せそうに、何度も大きく頷いた。


「うん……っ!」


「ちょっと、アンタら! 何いい雰囲気になっちゃってんのよー!」

「そうやで、ミナトはウチのもんやって言うてるやん!」


 ミチルとえみの容赦ないヤジに、俺は吹き出した。


「もしかして、みんないるの?」


 そう言って、レナが俺の顔を覗き込む。


「ああ。……きっと、祝福してくれてるんだと思う」


「そっか。じゃあ私も、嬉しい」


 レナが空に向かって優しく微笑む。


「そうだ。レナ、もう『霊名』じゃなくなったんだろ?」


 俺が尋ねると、彼女はいたずらっぽく笑って答えた。


「それがね……私の本当の名前、『怜奈』っていうの。だから、レナって呼んでくれていいよ。……ううん、その方が嬉しいかも」


 観月怜奈みづきれいなまさか適当につけた呼び名が、本名に限りなく近かったなんてな。


「そっか。……じゃあ、行こうか。レナ」


 俺は、レナの温かい手を握った。


「うん。……って、どこに?」


 不思議そうな顔をする彼女に、俺は笑って言った。


「決まってんだろ。あのスイーツを食べに行くんだよ」


 レナは一瞬だけ考え、そしてあの日の約束を思い出したようだ。


「あ……。うん、行こっ!」


 俺は繋いだ手の力を緩めないまま、光の差す方へと、一歩を踏み出した。


 水色の絶望から始まった俺の物語は、多くの仲間に彩りを添えられて、この眩しい天色の空のように、どこまでも続いていく。


(完)

これにて本編は完結となります。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

水色の絶望から始まった物語が、最後には晴れやかな天色となりました。


各登場キャラを考える上で、救いが一つのテーマであることを念頭に置きながら、様々な細かい伏線を置いて回収しました。

物語はここで終了しますが、今もどこかで湊とレナ、そしてミチル、えみ、ひより、由衣、そしてレンの賑やかな日々は続いていると思います。

番外編も少し追加すると思いますのでよろしくお願いします。

ここまで読んでもらって本当にありがとうございました。

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