第十六話:赤色の記憶と、深緑色の謎
静まり返った夜の図書室。俺たち四人と、由衣とのプライドを懸けたバトルが幕を開ける。
「まずはあーしからね。いくよ、第一問目!」
ミチルが鼻息荒く、自信たっぷりに問いかけた。
「千円の一割引はいくらでしょう!」
……うわ、初っ端からこれかよ。
あまりの低レベルな出題に、俺は思わず天を仰ぎそうになる。
案の定、由衣は怪訝そうな顔で、ジトッとした視線を俺に向けてきた。
「……これは正式な問題だ。答えないなら、その時点で俺たちの勝ちとなるが?」
俺が努めて真面目なトーンで告げると、由衣は深い溜息をついた。
「……九百円ですわ。人を馬鹿にしていらっしゃるのかしら?」
「…………」
ミチルが、すがるような目で俺の顔を見つめてくる。
「……正解だ」
俺が代わって判定を下す。まさかとは思うが、ミチル、自分が出題しておいて計算が分からなかったなんてことはないよな……?
「じゃ、じゃあ第二問! 台形の面積の求め方は!?」
「じゃあ第三問――」
次々と繰り出される問題。だが、十問目を数える頃には、由衣は余裕の表情で全問正解を重ねていた。
「う、嘘でしょ……。凄い……あーしじゃ、勝てない……」
ミチルがガックリと膝をつく。
「あの……この程度の問題でわたくしの実力を測ろうなんて、一体どういうつもりでして?」
呆れ果てた様子の由衣に対し、俺は動じることなく不敵な笑みを浮かべた。
「ふふ……ミチルを倒しただけで勝ち誇っているようだが、ミチルは我ら四天王の中でも最弱」
「ちょっと、ミナト! 誰が最弱よー!」
ミチルの猛抗議に、由衣がついに堪えきれず「クスッ」と声を漏らした。
「いいですわ。面白い方々ですこと……。では、続きを始めましょうか」
「じゃあ、次はウチの出番かな?」
次に名乗りを上げたのはえみだった。通信制とはいえ高校を卒業している彼女なら、ミチルよりは手強い問題を出してくれるはずだ。
「第十一問! 今の一万円札の顔は誰?」
「……渋沢栄一ですわ」
「やるやん! じゃあ第十二問――」
えみが繰り出す問題は、どれも世間一般の常識レベル。案の定、由衣の手によってすべて完答されていた。
「アカン……。ウチも完敗やー!」
えみがお手上げとばかりに肩をすくめる。
「ふふっ。これくらいでしょうか?」
由衣は少しも息を乱すことなく、むしろ物足りなげに微笑んでいる。
「……よし、次は俺の番だ!」
俺は気合を入れ直し、手持ちの知識を総動員して挑みかかった。
だが、偏差値の壁は高かった。普通の高校生が、進学校でトップを張り続けてきた才女に勝てるはずもなく。
「ぐはぁっ……。て、手強い……!」
「なかなか面白かったですわ。ですが、これしきではわたくしを倒せませんわ」
俺が必死にひねり出した三十問も、彼女は涼しい顔で、瞬く間に正解の山へと変えてしまった。
「……じゃ、私の番だね」
最後に、満を持してレナが前へ出た。
そこからは、さっきまでが何だったのかと思うほど、高度な問題の応酬が始まった。
「第五十一問。……えっと」
レナが少し緊張した様子で、頭の中で言葉を確かめるように間を置いた。
「フェルマーの小定理を用いて、3¹⁰⁰を7で割った余りを求めなさい」
「あーしそんなん聞いたこともないんだけど……」
ミチルが小声で呟く。えみも困惑した表情で首を傾げた。
「……なるほど。レナ様も、かなり勉強されていますのね」
由衣が感心したように頷く。
しかし、そんな難問でも由衣はあっさりと正答してしまう。
「凄いな、レナ……。お前、そんなに頭よかったのか」
「……私をなんだと思ってたの? みなと」
そう言いながらも、レナが安堵したように息をついた。
間違っても「天然キャラ」だと思っていた、とは口が裂けても言えない雰囲気だ。
対する由衣も、時にじっくりと時間をかけながらも、レナの繰り出す難問を、一分の隙もなく完答してみせた。
「レナさんは、なかなかの出題でしたわね。……ですが、まだまだですわ」
ならばと、俺たちは図書室の奥底から最難関大学の入試過去問を掘り出し、選りすぐりの悪問を叩きつけることにした。
「第九十問――」
「第九十一問――」
俺たちは答えすら理解できない数式や論述を次々と浴びせる。だが、由衣はわずかな沈黙の後、まるで見えない正解をなぞるように淀みなく答えていく。
「……なんで、これほどの実力があって入試に失敗したんだ?」
思わず漏れた俺の言葉に、由衣は誇らしげに微笑んだ。
「あの日からも、わたくしはずっと勉学に励んでおりますもの。当然のことですわ」
――そして。
「……ゆえに、π>3.105。これで証明終了ですわ」
凄まじい。俺たちの想像もつかないような難解な証明を、彼女はいとも容易く導き出してしまった。
「……これで九十九問正解。みなと、もうこれ以上難しい問題なんて、この図書室にはないよ……」
レナが、白旗を上げるように深く溜息をついた。
「……そうだな」
俺たちが図書室の棚からさらなる難問を掘り出そうとしている間にも、由衣は腰に手を当てて、勝ち誇ったように小さな胸を張っていた。
腰まであるツインテールが、自信に満ちた彼女の動きに合わせて誇らしげに揺れる。
俺は、手にしていた分厚い参考書を静かに閉じた。
「……よし。最後の問題は、俺からだ」
「受けて立ちますわ。とびきりの難問を用意してくださいな」
余裕の笑みを浮かべる由衣を真っ直ぐに見据え、俺は一文字ずつ、噛みしめるように問いかけた。
「――ここまで積み上げてきた自分の成長を、本当は誰に見てもらいたい? 誰に一番、伝えたいと思ってる?」
「えっ……」
その瞬間、由衣の動きが凍りついた。
彼女の思考が止まり、迷いのあるような表情を見せる。
「これが、第百問目だ」
「そ、それは……わたくし……」
由衣の瞳が激しく揺れ、やがて大粒の涙がポロポロと頬を伝い落ちた。
「それは……お母様……ですわ……っ!」
拳を握りしめ、肩を激しく震わせながら、彼女は絞り出すように答えた。
「お母様に……よくやったねって……頑張ったねって……褒めてもらいたい……っ!」
膝から崩れ落ち、その場に座り込んだ由衣が、子供のように声を上げて泣いた。
「――正解だ」
俺の言葉を合図に、レナたちが一斉に温かな拍手を送る。
泣きじゃくる由衣の前へ、ミチルがどこからか取り出した一枚の紙を差し出した。
「……これって……?」
由衣が涙に濡れた目を見開く。
それは、ミチルたちがこっそり用意していた、手作りの表彰状だった。
「俺たちにできることは、これくらいしかないけれど……。でも、勉強以外の悩みなら、経験豊富な大人もいる。きっと、君の力になれるはずだ」
由衣は潤んだ瞳で、俺たちの顔を一人ずつ見つめ返した。
やがて、彼女は柔らかで、穏やかな笑みを浮かべた。
「……ふふ。はい。……ありがとうございます……っ」
由衣はその賞状を、まるで宝物のように、大切そうに胸へと抱きしめた。
「なぁ、由衣。……一度、母親の様子を見に行かないか?」
俺の提案に、由衣は迷うように視線を泳がせた後、小さく、決意を込めて頷いた。
――
翌日。
俺たちは、昨晩約束した待ち合わせの場所へと向かった。
「……おはようございます」
そこにいた由衣は、背筋をピンと伸ばし、相変わらず礼儀正しく一礼した。
「おはよう」
俺たちの顔を見た瞬間、彼女の肩からわずかに力が抜けたのが分かった。
「どうした? やっぱり、緊張してたのか?」
「……はい」
無理もない。相手は実の母親とはいえ、自分を極限まで追い込んだ本人だ。
自分を見てほしくて、その細い首に自らカッターを突き立てた――その凄惨な記憶の先にいる人物なのだから。
けれど、きっと。今の彼女なら……。
しばらく歩いた先、閑静な住宅街の中に、その家はあった。
周囲に馴染みつつも、どこか威厳を感じさせる広めの一軒家。
「ここ……ですけれど……」
門扉に手をかけた由衣の指先が、目に見えて激しく震え出す。
それを見た俺は、無意識のうちに、彼女の頭へとそっと手を置いていた。
由衣は意を決したように、震える足取りで門を潜り抜けた。
「キコ……キコ……」
家の裏手から、聞き慣れない音が響いてくる。
俺たちは顔を見合わせ、恐る恐るその音の方へと身を乗り出した。
そこにいたのは――。
かつての厳格な面影を失い、なりふり構わず三輪車を両手で押している、由衣の母親の姿だった。
「あれは……わたくしの、三輪車……」
由衣がまだ幼い頃に乗っていた、今は塗装の剥げた錆びだらけの赤色の三輪車。
それを、母親は優しい手つきで、愛おしそうに押していたのだ。
「由衣……ごめんね……ごめんね……」
母親の頬を、幾筋もの涙が伝い落ちる。
偏差値でも、合格通知でもない。ただ由衣と笑い合っていた、あの遠い日の記憶だけを必死に噛みしめるように、彼女は何度も娘の名を呼んでいた。
「お母様……っ、お母さん!」
由衣はたまらず母親の元へ駆け寄り、その小さな身体で、泣き崩れる母親に力いっぱいしがみついた。
幽霊である彼女の腕は、きっと母親には伝わらない。けれど、それでも彼女の祈りは、今この瞬間に重なり合っていた。
「よかった……。ね、みなと」
その光景を前に、レナたちもまた、堪えきれずに静かな涙を流していた。
由衣は、母親との幼い日の記憶を静かに噛み締めた後、ゆっくりと俺たちの元へ歩み寄ってきた。
「皆様、本当にありがとうございました。わたくしたち、お互いを想う気持ちがすれ違ってしまいましたけれど……。
今、こうして再び本当の気持ちを理解することができました。これも湊様たちが、とても楽しい『試験』を経験させてくださったおかげですわ」
「いや、俺たちが出した問題なんて、結局なんの役にも立たなかっただろ」
謙遜する俺に、由衣は優しく首を横に振った。
「いいえ。皆様と過ごしたあの時間は、勉学以外にも大切なことを教えていただいた気がいたします。それに……」
由衣は、俺たちの顔を一人ずつ、優しく目を細めて見渡した。
「わたくしにもお友達ができたようで、とても……楽しかったですわ」
その清々しい言葉に、レナたちは満面の笑みを返し、俺は一人、照れ隠しに視線を逸らすのが精一杯だった。
「それに――」
不意に、由衣が隣に立つレナを真っ直ぐに見つめた。
「レナさんの出された問題は、特に骨のある難問ばかりで、とても勉強になりました。……流石は、あの『聖華学園』に進学されているだけありますわね」
「え……?」
予期せぬ場所から飛び出したレナの高校名に、その場の空気が凍りついた。
「なんで……それを知ってるんだ?」
「何でと申されますと、その深緑色のブレザーに間違いはありませんもの。わたくしも高校受験の際、受験させていただきましたから」
これまで何一つとして手がかりがなかったレナの過去。それが、こんな形で繋がるなんて思いもしなかった。
「……もちろん、わたくしにとっては滑り止めでしたけれど」
いたずらっぽく、茶目っ気たっぷりに笑う由衣。
一方で、一つの記憶を取り戻しながらも、さらなる謎に翻弄されるレナ。
二人の対照的な姿が、とても印象的だった。
第十六話までお読みいただき、ありがとうございます。
由衣と、そのお母さんの物語。いかがでしたでしょうか。
厳格だった母親が、壊れた三輪車を押し続けながら娘の名を呼ぶ姿。偏差値や期待という「色」を失った先に残った、あまりにも純粋な親子の情愛を描きたくて、このエピソードを書き上げました。
そしてレナの謎が一つ判明しました。
いよいよレナ編に突入です。
今回は赤色と深緑色が出ました。次回は漆黒色と青色が登場します。
次回をお楽しみに。




