第十五話:露草色の祈りと、黄蘗色の防人
『ごめんなさい……』
……あの時の夢だ。
その日の目覚めは、最悪の一言に尽きた。
よりによって、フラれた日のことを夢に見るなんて。
昨晩、女子チームが遅くまで盛り上がっていたせいもあるかもしれない。
推しのアイドルグループがどうの、お勧めのコスメがどうのと、ミチルとえみを中心に盛り上がっていたようだ。
記憶が二十年前で止まっているひよりさんと、なんでも吸収しようとするレナの対比が面白かった。
だけどそのうち、俺は途中で話についていけなくなって、そのまま床に寝転んだ。
そのせいか、今日は一段と身体が重い。
心臓がズキリと痛み、鼓動のテンポも異様に速い気がする。
「みなと? どうしたの……体調、悪い?」
俺の顔色を窺い、レナが不安げに覗き込む。
「いや、そういうわけじゃないんだけど……。大丈夫だ」
精一杯の虚勢を張る。けれど、ミチルが真剣な眼差しで俺を見つめていた。
「ミナト。アンタ……そろそろ戻らないと」
「分かってる。……でも、もう少し……もう少しだけ」
今日の目的は、創心環高校に行って、あの首の曲がった少女に会うことだ。
とはいえ、白昼堂々校内に潜り込むのは流石に気が引ける。
俺は時間調整も兼ねて、まずは自分の肉体が眠る病院へ向かうことにした。
――
母さんは、俺のベッドの横にある花を替えていた。
花瓶に一輪。その花は小さいけれど、透き通るような露草色をしていた。
「わぁ……めっちゃ可愛いやん。これ、なんていう花なんやろ?」
えみの問いに、レナが静かに答える。
「この花は、ブルースターだと思う。花言葉は……『信じ合う心』それに、『幸福な愛』……」
レナがその意味を口にすると、誰も何も言えずに黙り込んでしまった。
「湊、今日もいい天気だから。少し窓を開けましょうね」
母さんはカーテンをめくり、窓を少しだけ開けた。
部屋の中を、初夏の爽やかな風がさらりと通り抜けていく。
母さんは俺の手をそっと握ったり、乱れてもいない布団の端を何度も掛け直したりしてくれている。
……その姿に、俺は自然と涙を流してしまっていた。
「そうだ、湊。お母さん、今朝お花を買いに出たでしょう? その時にね、会ったのよ」
母さんが、眠る俺に語りかけるように淡々と言った。
「中学の時から仲良くしてくれた……ほら、あの、宮坂さん」
その名前が出た瞬間、病室の空気が凍りついた。
女子たちの視線が、一気にひりつき始める。
「湊のこと、『大丈夫ですか?』って心配してくれていたわ」
……一応、まだ心配はしてくれてるんだな。
俺が複雑な心境でそんなことを思っていると、母さんは少し困ったように眉を下げた。
「でもね……お母さん、隣にいた男の子は、ちょっと苦手かな」
……烏丸先輩のことか?
「なんだか、薄っぺらい感じがするというか……。体裁を取り繕っている、って感じかな、ごめんね。変な話をして」
そう言って、母さんは俺の頭を優しく撫でた。
病室を後にした女子たちは、外に出るなり再び先輩への非難を爆発させる。
「やっぱりあーし、あの女マジで許せないかも」
「ウチも。なんかチャラい男連れとんなぁ、思ててん」
「えっ……どんな人だったんですか?」
烏丸先輩を見ていないレナが、不安そうに首を傾げる。
「……もういいから。悪口ばっかり言ってても何も始まらないし、負のオーラがたまりそうだよ」
俺がそう告げると、みんなは不満げながらも、ようやく矛先を収めてくれた。
――
それからしばらく時間を置き、俺たちは再びあの少女の霊のもとを訪ねた。
「また、いらしたんですの? 今日はあいにく、あの猫は来ていないようですが」
開いている本のページから視線を逸らすことなく、彼女は冷ややかに告げる。
「今日はレンに会いに来たんじゃない。……君に、用があって来たんだ」
「わたくしに……?」
彼女はパタリと本を閉じ、ゆっくりとこちらを振り返った。
不自然に折れ曲がったその首が動くたび、レナとミチルがビクッと肩を震わせる。
その怯えに気づいたのか、彼女はそっと自分の首元に手を当てた。
彼女は首をまっすぐにして、俺たちの話を聞いてくれた。
「……それで、今日はどのようなご用件かしら。手短に済ませていただけるとありがたいのですけれど」
「君には……俺たちがどういう存在か、分かってるんだろ?」
「ええ。わたくしと同様に、この現世には決して存在せざるもの。……そして、その紛い物でしょうか」
紛い物……か。えらい言われようだな。
「ここにはそれぞれ問題を抱えていた子もいる。まだ解決していない子もいるけれど……。よかったら、君がなぜここに居続けているのか、教えてくれないか?」
俺の問いに、彼女はかけていた眼鏡を静かに机へ置いた。
「そうですわね。せっかく会いにいらしたのですし、少しだけお話しさせていただきましょう」
彼女は短く、優雅に一礼する。
普通の家庭に一人娘として生まれた彼女は、ごく普通の生活をしていた。
しかし、ある日父親が事故で亡くなってしまう。
それをきっかけに、母親が彼女へ過度な教育の熱意で支配していったこと。
母親は次第に彼女ではなく、結果だけを見るようになったことを話してくれた。
「おかげで、この学び舎へと歩みを進めることが叶いました。それには、感謝の気持ちしかありません」
少女は自嘲気味に微笑む。
「……君は、俺より年上なんだよな」
「ええ、そうですわ」
「なら、なんで今もここにいるんだ?」
俺の言葉に、彼女はわずかに視線を落とした。
「大学受験……。お母様の更なる熱意と期待は、留まることを知りませんでした。テストの成績が少しでも落ちようものなら、容赦のない仕置きが待っていました。それでも、わたくしはお母様の期待に添うべく、死に物狂いで勉学に勤しみました。……ですけれど」
一瞬、彼女の肩が微かに震えた。
「わたくしの、いえ、お母様の夢が叶うことはありませんでした。それ以来、お母様はわたくしのことなど一切顧みなくなって……」
窓から差し込む月光に、少女の涙がひとすじ舞う。
「……わたくしのことを見てほしくて。……ただ、それだけのために、持っていたカッターで……この、首を……」
震える指先が、白く細い首筋に刻まれた赤黒い痕跡に触れる。
親を愛するがゆえの、あまりに純粋で、あまりに歪んでしまった究極の自己主張。
「いや、俺が聞きたいのは、どうしてまだここにいるんだってことだ。もう叶うはずのない呪縛に囚われてなんていないで、もっと自由に――」
「貴方なんかに、何がわかりますの!」
彼女は声を荒らげた。
「期待に添えないわたくしになど、何の価値もありませんわ! それならわたくしは、自分が納得できるまでここで勉学に励む……それしか道はないのです!」
その悲痛な叫びに、背後でえみが、どこか共感するように静かに頷いていた。
「……それでも。そこに目標があるからこそ、人は頑張れるんじゃないのか?」
俺の言葉に、彼女の肩が微かに揺れる。
このままでは、彼女は永遠にこの図書室を彷徨い続けることになるだろう。出口のない学習を、ただ繰り返すだけの亡霊として。
「なぁ、君……」
「……はい」
「俺たちが、とびきり難しい問題を百問用意する」
「……それは、どういう意味でして?」
「一問でも間違えれば、君の負けだ。君はこれまで通り、ここで勉強を続けてくれ。……だが、もし全問正解したら君の勝ちだ。その時は、もうここで勉強するのは終わりにする。いいな?」
「何をおっしゃいますの、そんな……」
「君だって知ってるだろ? 夜に動く二宮金次郎の噂。そのせいで、他の生徒がここに来るのを怖がっているんだ」
彼女はしばらくの間、黙り込んで考えに耽っていた。やがて、覚悟を決めたように顔を上げる。
「……分かりましたわ。受けて立ちましょう」
「ああ。俺たちも、容赦はしないぞ」
不敵に笑う俺を見て、彼女も自信ありげにクスリと微笑んだ。
「北条由衣ですわ」
「え?」
「君ではなく……わたくしの名前。北条由衣と申しますわ」
由衣はその小さな胸を張るように告げた。
その様子を見て、俺たちは顔を見合わせて微笑んだ。
「俺は瀬戸湊。こっちがレナで、あれがミチル。……そして、あの子がえみだ」
「皆様、よろしくお願いいたしますわ」
由衣は、月明かりの下で深々とお辞儀をした。
埃が白く漂う、夜の図書室。
黄蘗色に並ぶ本棚を背に、俺たちと由衣の――プライドを懸けた勝負が始まろうとしていた。
第十五話までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は湊の母親の、母親らしい姿を書けたかなと思います。
そしていよいよ図書室の少女・由衣の辛い過去が分かりました。
次回は湊たちと由衣との学問バトルとなります。
今回は露草色と黄蘗色でした。次回は赤色と深緑色が登場します。
次回をお楽しみに。




