第十二話:黒橡色の噂と琥珀色の陽だまり
今日は、目が覚めた瞬間から身体がこれまでにないほど重かった。
いや、重いというよりは、何かに掴まれて引きずられているような感覚だ。
「う、ら、め、し、や~~……」
レナやミチルが朝から俺を驚かそうとしてくる。
何度やられても同じ。俺は華麗にスルーする。
「ね? 驚かないっしょ? あーしらの姿見ても全然ビビんないの。マジ変わってるわー」
「ミッチーのその姿見てビビらんて、なかなかやね」
気がつけば、えみまでが俺の部屋に居座っているじゃないか。
「お、えみ。久しぶりに見たら、随分と顔色もよくなったな」
「せやろ? おかんがな、毎日ご飯よそってくれるし。ウチ、もう痩せるとか気にせんようにしてん」
「そうか。それは、いいことだと思うよ」
「それにぃ……」
えみがニヤニヤと笑いながら、俺の肩にスッと身体を寄せてきた。
「ありのままのウチでええって、最初に言うてくれたもんなぁ……?」
上目遣いで俺を見つめる、弾けるような笑顔。
「なっ……! みなとは、多分そういうつもりで言ったんじゃないと思いますし! だいたい、えみさんとは年が離れてるじゃないですか!」
レナが慌てて俺の反対側の腕を自分の方にグイと引き寄せる。
おい、一体何が起きているんだ。
「離れてるって、四つくらいやろ。それに、ウチ、年下でも全然大丈夫やで」
「そういう問題じゃなくて……っ!」
俺はしばらく腕を右に引っ張られたり、左に引っ張られたりと、されるがままに身体を委ねていた。
――
その後、俺は一人で創心環高校へと向かった。
レナとミチルには、ひよりさんの猫探しを頼んである。
あの首がありえない方向に曲がった少女の姿は、幽霊である彼女たちですら怯えるほどだったし、俺一人で行くのが正解だと思ったからだ。
重い足取りで歩いていると、向こうから見覚えのある制服が近づいてくる。
宮坂先輩だ。
だが、その隣には――。
あれは三年の烏丸礼二先輩か。
超絶イケメンで文武両道、他県の生徒も告白しに来るらしい。
だが一方で、彼の周囲では黒橡色の濁った、悪い噂が絶えないことでも有名だった。
宮坂先輩は、俺の前では一度も見せたことのないような、心からの笑顔で烏丸先輩と談笑している。
……そうか、そうだったんだ。
宮坂先輩をずっと見てきたから、いくら鈍い俺でも分かる。
そりゃあ、俺の想いが敵うはずなんてなかったんだ。
頭の中で理解しようとしている自分と、心の中でそれを拒否しようとする自分が、激しく戦いを始めた。
俺はその光景を拒むように、まるで逃げるようにその場を後にした。
「バカだな、俺……。先輩には、俺の姿なんて見えるわけないのに」
創心環高校に到着したが、授業中ということもあり、いくら実体がないとはいえ女子校にこの時間から侵入するのは、流石に気が引けた。
「いや、待てよ。今の俺なら……覗き放題ってことか?」
一瞬、よこしまな考えが脳裏をよぎる。
だが、俺は葛藤の末、放課後まで待つことにした。
「我ながら、俺って真人間だな。いや、真幽霊? 真幽体か」
自嘲気味に呟きながら、校門付近で時間を潰す。何人かの生徒とすれ違う際、彼女たちのひそひそ話が耳に届いた。
「ねぇねぇ、あの噂、お聞きになりまして?」
「もしかして、『動く二宮金次郎』のことですの?」
「そうですわ。私、とても怖くて。夜の図書室付近で本を捲る音がするって……」
俺の直感が正しければ、その噂の主は間違いなくあの少女だろう。
「本を読むのを邪魔するな」と凄んだ彼女の姿が重なる。
やがて日が落ち、校舎に月光が差し込み始めた。
俺は気配を消し、校内を巡って彼女を探した。
辿り着いたのは、やはり図書室の前だ。
廊下の奥は深い闇に沈み、先が全く見えない。
コツ、コツ……。
静寂を破り、革靴がリノリウムの床を鳴らす乾いた音が響く。
本を読みながらこちらに歩いてくる、ツインテールの少女。
しかし、あの時と同じく、その首はあり得ない方向へ向いている。
「……動く二宮金次郎っていうよりは、二宮金子だな」
俺が声をかけると、カサリとページを捲る音が止まった。
「……あの時の……」
その少女は、柳のような眉を僅かに動かした。
「邪魔をしないでくださる? そうお願いしたはずですけれど」
丁寧な言葉選びとは裏腹に、氷のような冷ややかさが混じっている。
「邪魔をするつもりはないんだ。ただ、なんでこんな所をうろついてるのか気になってね」
彼女は慈しむようにページを繰っていた本を音もなく閉じて、かけていた眼鏡を外した。
「学生の本分は学業にございましょう。貴方こそ、わたくしより年少とお見受けしますけれど、このような場所で油を売っていてよろしいのかしら?」
いや、俺には学業よりも、解決しなければならない問題が山積みなんだが……。
「あ、そうだ。あの時の三毛猫がいただろ? あの猫って、君の飼い猫なのかな」
「あぁ、あの愛らしい三毛猫さん。三万分の一の確率でしか生まれないと言われる、稀少な雄ですわね」
……はぐらかされているのか? だんだん腹が立ってきた。
「そうじゃなくて、君が飼い主かどうかって聞いてるんだ」
「ふふ、短気は損気ですわよ。……いいえ。あの猫はよくここへ遊びにいらっしゃいますが、わたくしが飼っているわけではありません」
しゃくではあるが、その情報が得られただけでも今日の収穫と言えた。
「ここに来るとき、変な噂を聞いたんだ。『夜中に二宮金次郎が動く』……とかさ」
すると彼女は、くすりと鼻で笑った。
「そのような低俗な話に心身を乱されるようでは、知性というものを疑ってしまいますわ」
……なんだこいつ。遠回しに俺を馬鹿にしてるのか?
「あのさ。そういう言い方、あんまり良くないと思うぞ」
「ふふ、学業こそ人生のすべて。有象無象に時間を割く余裕など、わたくしには到底ございません。……貴方のような方は違うのでしょうけれど」
さすがにカチンときた。
「そんなくだらない本ばっかり読んでるから、そんな可愛げのない理屈ばっかり出てくるんだろ。人生にはさ、勉強よりももっと大事なことってあるだろ。例えば――」
その瞬間、空気が変わった。鋭い殺気だ。
「あり得ませんわ。この世に勉学より尊いものなど、断じて存在いたしません」
彼女は閉じていた本を再び開き、拒絶するように視線を落とした。
「……お引き取りくださる? わたくしの勉強の邪魔をしないでいただきたいのですけれど」
言い捨てると、彼女は足音ひとつ立てず、図書室の奥へと消えていった。
……参ったな。レナやミチルに慣れすぎてたのかな。俺の言い分がこれっぽっちも通じないなんて、初めてかもしれない。
猫の情報を聞き出して、あわよくば彼女が抱えている悩みでも解決してやれたら……なんて思っていたけれど、完全に考えが甘かったようだ。
「……少し、調子に乗ってたのかもな」
レナに褒められたりして、自分なら何とかできるんじゃないか、なんて。
なんだか、今日は最悪の一日だ。
夜もすっかり更けてから家に帰りつくと、自室の中はさらに賑やかになっていた。
「あら、お邪魔しています。みなと君」
「え……っ、ひ、ひよりさん!?」
驚く間もなく、俺の両腕をレナとえみがガシッと掴んだ。
「ほんまや、油断も隙もあらへんな。ウチがおるっていうのに!」
「えみさんのものではないと思いますけど?」
「あらあら。みなと君、さらにモテモテになっちゃって――」
「違います!」
話を聞くと、一日中三毛猫を探し回っていたレナたちは結局空振りに終わり、その帰り道に偶然出会ったひよりさんをそのまま部屋に連れてきたらしい。
「じっくりお話を聞いた方がいいと思って。ね?」
レナはそう言うけれど、俺の部屋にどれだけ霊魂を集中させれば気が済むんだ。
「そうだ、首輪とか……何か目印になるものは付けてないんですか?」
「それが、レン君首輪がとても苦手で。無理に着けようとすると足でケリケリして、自分を傷つけちゃうの……」
……困ったな。それじゃ、もう見た目だけで判断するのは不可能ってことじゃないか。
こうなると、ひよりさんの事情をもう少し聞いて、猫との繋がりを探るしかないか。
「あの、身体が弱いって聞きましたけど、一体――」
俺が言葉を濁しながら尋ねると、ひよりさんは隠す様子もなく、穏やかな笑みを浮かべて教えてくれた。
「もともと、私、病弱で。物心ついた時から、病院と自宅を行ったり来たりするような生活だったの」
ひよりさんもまた、想像以上に過酷な日々を送ってきたんだな……。
「そんな時にね、両親が私へのプレゼントだって、三毛猫を連れてきてくれたの」
ひよりさんはそっと目を閉じ、大切な記憶を噛み締めるように話を続けた。
「レン君が家に来てから、不思議と病気もだんだん良くなって……。でも、そのうちまた悪くなっちゃって。病院には、さすがにレン君を連れていけないから」
それは、そうだろう。一般の病院に動物は入れない。
「レン君はね、私を元気にしてくれたの」
彼女の象牙色のセーターに残る、小さなほつれが目に入った。どれほど密度の濃い時間を過ごしてきたか、その一箇所を見るだけで伝わってきた。
「だからね、せめてレン君にありがとう、私は大丈夫だからって、それだけ伝えられたらなって……」
「ひよりさん、それ泣けるってぇ……っ」
ひよりさんの琥珀色のような温かい思い出話に、ミチルたちがこらえきれず号泣している。
……そうか。レンもきっと、今頃必死でひよりさんを探しているはずだ。
「大丈夫です。レンがひよりさんを探しているなら、絶対に見つけられると思います」
「ミナト、またアンタはそうやって根拠もなく適当なことを……」
「いや、探そう。絶対に」
俺の言葉に、えみもレナも力強く頷いてくれた。
……今は、俺にできることをやろう。
なぜか今日に限って、やけに重く痛む心臓を片手で押さえながら、俺は心の中でそう誓った。
第十二話までお読みいただき、ありがとうございます。
賑やかになった湊の自室とは対照的に、宮坂先輩の隣に立つ学校の先輩、そしてすべてを拒絶するかのような図書室の少女の霊。
最後にはひよりさんと三毛猫・レンとの思い出も出てきました。
そして湊の体調が少しづつ悪くなっていきます。一体どうなってしまうのか。
今回は黒橡色と、琥珀色でした。次回は藤色と瑠璃色が登場します。
次回をお楽しみに。




