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第五・五話:薔薇色のチョコレート

「せー、とっ!」


「わっ! ……びっくりした。やめろよ寺島」


 背中を叩かれて振り返ると、親友の寺島がニヤニヤしながら立っていた。


「なんだ、また宮坂先輩を眺めてたのか?」


 寺島の指摘に、俺は否定もできず視線を運動場に戻した。そこでは文化祭の準備に追われる生徒会の人たちが忙しなく動き回っている。


「……あの笑顔を見てると、なんか癒やされるんだよ」


 中心にいるのは、生徒会委員の宮坂先輩だ。

 目が回るような忙しさのはずなのに、先輩は周囲に屈託のない笑顔を振りまいている。


「瀬戸も生徒会に入るか、せめて美術部に入れば、宮坂先輩とお近づきになれたかもしれないのにな」


「それはそうだけど……俺には場を仕切るリーダーシップもなけりゃ、美術の才能なんてこれっぽっちもないからな」


「そりゃそうか。ははは!」


 ……「ははは」じゃねえよ。


 宮坂凛音みやさかりおん先輩は、俺より一つ上の中学二年生。

 美術部と生徒会を掛け持ちし、成績も優秀。いつも明るいその姿は、俺にとって文字通り「太陽」のような存在だ。


 俺が先輩を知ったのは、中学に入学して間もない頃だった。

 登校中、ふと前を歩く先輩の背中に目が止まった。……そこには、この世のものではない“見えざるもの”が、冷たい手で先輩の肩を掴んでいたんだ。


 俺は咄嗟に駆け寄り、“ソレ”を振り払おうと、先輩の肩の後ろを右手で横凪に払った。


「えっ……?」


 当然、先輩は驚いて振り返る。突き刺さるような視線。

 まさか「幽霊が憑いてました」なんて言えるはずもない。

 慌てて俺の口から出たのは、自分でも信じられないようなセリフだった。


「……鎮まれ、俺の右手よっ……!」


 俺は必死に右腕を左手で押さえつけ、苦悶の表情を作ってみせた。


「瀬戸って、たまに変なスイッチ入るよな……」


 隣で親友の寺島が、冷ややかな目で突っ込んでくる。……死にたい。今すぐ地面に穴を掘って埋まりたい。


 けれど、宮坂先輩は引くどころか、ポカンとした後でクスリと笑った。


「ふふっ。もしかして、虫か何かが飛んでたの? ……ありがとう」


 それ以来、まともに会話なんてできていない。だけど俺の視線は、気づけばいつも先輩を追いかけていた。


 文化祭の準備で、生徒たちが遅くまで校舎に残っているある日のこと。

 自分のクラスの作業がひと段落ついた俺は、あてもなく廊下を歩いていた。吸い寄せられるように足が向かったのは、美術室の前だった。


 夕闇が迫る教室で、宮坂先輩は真剣な眼差しでキャンバスに向かっている。

 そして……やはり、その背後には“ソレ”が黒い影のようにまとわりついていた。


 俺はわざとらしくノックの音を響かせ、心臓の鼓動を抑えながら声をかけた。


「あ、あの……何してるんですか? こんなところで」


 我ながらバカな質問だ。絵を描いている人間に向かって「何してる」なんて。けれど、先輩は筆を止め、穏やかに微笑んだ。


「あら……君は、あの時の……」


「あ、はい、瀬戸です!」


 先輩が覚えていてくれたことに舞い上がりつつ、俺は絵を覗き込むふりをして、素早く彼女の背後に回り込んだ。

 そして、先輩に悟られないよう、背後の“ソレ”に向かって「もう、先輩に近づくな」と、必死に指で追い払うジェスチャーを送る。


 すると“ソレ”は、申し訳なさそうな様子を見せると、スッと夜の闇に溶けるように消えていった。


「……犬の絵、描いてたんですか?」


 キャンバスにはまだ下書き段階の犬の輪郭と、机の上には、モデルらしき一枚の写真が置いてあった。


「そうなの。飼ってた犬が、今年の初めに死んじゃって……」


 寂しげに語る先輩の目は、どこか優し気だった。

 ……なるほど、先輩のその溢れるような優しさが、無意識に幽霊を呼び寄せてしまうのかもしれない。

 けれど、今は絶好のチャンスだ。勇気を出して、もう一歩踏み込んでみる。


「あの……少しだけ、見ていてもいいですか?」


「全然いいよ。瀬戸くん、絵に興味があるの?」


「興味は……正直ないです。絵を描くのも塗るのも下手で。だから、どうやったらそんな風に上手く描けるのか、知りたくて」


 先輩はまたニコッと微笑むと、ふいに椅子から立ち上がった。


「じゃあ……一緒に描いてみる?」


「えっ、俺が!?」


 先輩は手際よく予備の画用紙や絵の具を用意してくれた。

 促されるまま、俺は写真の犬を必死に模写し始める。すると、先輩が俺の後ろに回り込み、じっと手元を覗き込んできた。


「全然下手じゃないよ。……うん、すごく上手く描けてる」


 絶対、嘘だ。もしこの絵を前情報なしで見せられたら、俺でも犬だと答えられる自信はない。


「……でも、ほら。ここをよく見て。耳の形は、本当はこうなってて……」


 俺の絵を添削するために、先輩がグッと顔を寄せてくる。その拍子に、さらさらとした彼女の髪が俺の頬を優しく撫でた。

 ふわりと漂う、甘くて清潔な香り。至近距離から聞こえる吐息。俺はもう、目眩がしそうなほどに舞い上がっていた。


 あぁ……勇気を出してよかった……!


「……まぁ、デッサンは数をこなすのが一番だからね」


 先輩の的確なアドバイスのおかげで、俺が描いた「四足歩行の謎の生物」は、どうにか「ちゃんとした犬」へと昇華された。


「色を塗るのも、そんなに難しくないよ。さあ、やってみて」


 俺は震える手でパレットに茶色の絵の具を溶かし、筆に含ませた。


「こんな感じ……ですか」


 緊張で手が滑らないよう、下書きの線をなぞりながら丁寧に色を乗せていく。


「鼻と目は、黒で……こう」


 全神経を集中させて、仕上げにチョンチョンと色を置く。


「……よし、完成!」


 筆を置いた俺の横で、先輩が自分のことのように嬉しそうに微笑んでいた。


「そうだね。悪くはないんだけど……。でも、この写真をよく見て。ほら、一色じゃないでしょう?」


「確かに……言われてみれば、そうかも」


 単に「茶色」だと思っていた毛並みも、よく見れば影の部分はもっと暗い茶色、光が当たる場所は白く透き通っている。


「でも、難しくないですか? そうやって色を細かく塗り分けるのって」


 俺がそう言うと、先輩は新しい絵の具をパレットに溶かした。


「人間の肌も一緒だよ。ほら、これは「肌色」の絵の具だけど、君の手と比べたらどうかな」


「……俺の手の方が、黒いです」


「じゃあ、私の手は?」


 不意に、先輩の手が、俺の手にそっと重ねられた。

 先輩の柔らかい手の感触に、頭の中が真っ白になる。


「……白い、です」


「そうだね。でも、ほら。私の顔を見て。髪の毛が落とす影の色や、輪郭の部分はどう見える?」


 言われるままに、俺は先輩の顔をじっと見つめた。

 パレットの上の肌色と、目の前にある本物の肌色。影の落ちるこめかみ、柔らかな頬の曲線……。

 そのあまりの美しさに、俺はいつしか色の違いを探すことさえ忘れ、彼女の瞳に見惚れてしまっていた。


「……全然、違います」


「そうだよね」


 先輩はふふっと笑うと、筆を置いて、教室の外の空を眺めた。


「あの空だってそう。ただの青じゃなくて、もう少し黒が混ざったような紺藍色。そして地平線は、少し赤が混ざったようなすみれ色」


 先輩はくるりと振り返り、優しく微笑んだ。


「絵の具の重ね合わせで、色は無限に作れるの。そうやって意識してみるだけで、今見ている世界が、少しだけ鮮やかになる気がしない?」


 その瞬間、俺の心は一気に鷲掴みにされた。


 それから俺は、目に入るものすべてを色で例えるようになった。


「あの花は、黄色に少しだけ赤を差したような……山吹色。あの空は、白が混ざって透き通るような白群色」


「瀬戸、お前……さてはまた何かに影響されたな?」


 隣を歩く寺島が、呆れたようにツッコミを入れてくる。


「……寺島の腹の中は黒色」


「なんでだよ!」


 確かに、先輩の言う通りだった。「青」や「赤」の原色だけじゃなく、その奥にある複雑な混ざり合いを考えてみるだけで、世界は驚くほど立体的に、鮮やかに感じられた。


 それから、先輩と話す機会は飛躍的に増えた。気づけば、放課後の校門で待ち合わせをして、一緒に下校するような……そんな、夢のような仲になっていた。


――


「瀬戸。宮坂先輩、樒ヶしきみがはら高校を受験するらしいぞ」


 二年生になったばかりのある日。寺島が、どこから仕入れたのか慌てた様子で俺に耳打ちした。


「なんでお前がそんなこと知ってるんだよ」


「職員室で、先輩が先生に話してるのを偶然聞いたんだよ。間違いない」


 樒ヶ原高校。美術科は県内でも有数の難関で通っている公立校だ。正直、今の俺の成績では、普通科でも逆立ちしても届かないようなレベルの場所だった。

 俺は居ても立ってもいられず、放課後の下校中に先輩に尋ねてみた。


「ふふ。そうなの。私も、もっと本気で勉強しないと危ないんだけどね」


 先輩はいつものように優しく微笑んだ。


「樒ヶ原の美術部には、すごく有名な先生がいるの。私はどうしても、その先生のところで学びたくて」


「……そう、なんですか」


「それに――。……ううん、なんでもない」


 ふと、先輩の言葉が途切れる。先輩の目が、どこか遠い場所を見つめていたことに、その時の俺は気づくことができなかった。


「母さん。俺、塾に行きたいんだ。……樒ヶ原高校を目指したい」


 夕飯の最中、意を決して切り出した俺に、母さんは箸を止めて真っ直ぐ俺を見た。


「急にどうしたの? まぁ、うちは母子家庭だから、公立に行ってくれるのは助かるけど……。いい? 湊。やると決めたら、最後までやりきるのよ?」


 母さんは理由は深く聞かず、信じて背中を押してくれる。

 それからの俺は、がむしゃらに勉強に打ち込んだ。教科書の白黒の文字が、いつか先輩と過ごす鮮やかな日々に繋がっていると信じて。


 そして中学二年の終わり。バレンタインの空気に校内が浮き立つ頃、校舎の陰でそわそわと先輩の姿を探していた俺を、背後から呼ぶ声があった。


「いたいた。瀬戸くん……これ、バレンタインチョコ」


 振り返ると、少し照れくさそうに笑う先輩が、小さな包みを差し出していた。飛び上がるほどの気持ちを必死に抑え込み、震える手でそれを受け取る。


「宮坂先輩。……あの、俺、先輩と同じ樒ヶ原に通えるように、一生懸命頑張ります。だから……!」


 言葉にならない想いを振り絞る俺に、先輩は今までで一番、とびっきりの笑顔を見せてくれた。


「瀬戸くんは、そうだね。何事にも真っ直ぐに突き進むところ……。私は、いい所だと思うよ」


 その言葉が嬉しくて、視界が一気に薔薇色に染まったように輝いて見えた。


 絶対に、樒ヶ原に受かってやる。そして同じ制服を着て隣を歩けるようになったら、その時は先輩に告白する――。


 胸に抱えたチョコレートの重みを感じながら、俺は心の中で、自分自身に強く誓った。


宮坂凛音番外編 完

湊と宮坂先輩の物語を公開しました。

この物語で語られる色は湊が宮坂先輩に教わった世界の見方でした。


この後、第一話の告白へと繋がっていきます。

これを読んだ後にまた一話から読んでもらえるとまた違って見えると思うので、よろしければまた読んでもらえると嬉しいです。

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