第六話:擂鉢の猛牛、宇和島の死闘
からくり競輪の戦場「バンク」の構造と物理学
からくり競輪における「バンク(競走路)」は、単なるアスファルトの路面ではない。それは、遠心力、重力、そしてマブイの出力が三次元的に交差する「魂の試験場」である。
カント(傾斜)――コーナー部分に設けられた傾斜を指す。からくり競輪の超高速域(時速100〜150km以上)では、この傾斜がなければ遠心力によって選手はバンクの外へと弾き飛ばされてしまう。逆に速度が足りなければ、重力によって内側へ滑落する。
333バンクと400バンク――周長が短い333mバンクは「小回り」と呼ばれ、カントが急で先行選手が有利とされる。一方、400mバンクは直線が長く、後方からの「捲り」や「追い込み」が決まりやすい。
イエローライン――バンクの上部に引かれた線。ここより外側を走ることは、走行距離が伸びる代わりに、高い位置エネルギーを速度へ変換できる「高台」を利用することを意味する。
宇和島競輪場、通称『闘牛の擂鉢』。ここは400mバンクでありながら、333バンク並みの急カントを持ち、海からの不規則な突風が渦巻く、全国屈指の難所である。
「あんなもん、壁じゃねぇか……」
検車場に降り立った速水健吾は、目の前の光景に思わず息を呑んだ。
阿蘇の険しい峠道で特訓を重ねてきた彼ですら、宇和島のカントは異常に見えた。それは「坂」ではなく、文字通りの「絶壁」だ。時速100kmを超えなければ、重力に従って一気に内側へ滑落し、後続に踏み潰される死の角度。
デビュー戦、1番車を与えられた健吾の前に立ちはだかるのは、地元の老練なレーサー、「宇和島の闘牛」の異名を持つ牛島だった。
「新人、阿蘇から来たんだってな。山登りは得意だろうが、ここは擂鉢の底だ。マブイをケチる奴から順に、重力に押し潰されて死ぬぜ」
牛島の纏うスーツは、健吾の『炎(HOMURA)』とは対照的だった。全身が「超硬質クロム」の重装甲で覆われ、標準的なスーツの倍近い質量がある。
彼の戦法は、その圧倒的な自重を強大なマブイで強引に加速させ、カントの最上部から「文字通り圧殺する」宇和島特化型の重量先行。重いからこそ、一度加速すればその慣性は誰にも止められない「鋼鉄の弾丸」と化すのだ。
「構えろ!」
電子音とともに、健吾の背中で『炎』が野獣のような咆哮を上げた。
「ギィィィィィンッ!」
恩師・不破源さんの調整した『阿蘇式クランク』が、健吾のコアマブイ2500を、一滴のロスもなく回転エネルギーへと変換していく。
だが、牛島の立ち上がりは健吾の予想を遥かに超えていた。
牛島はスタート直後、膨大なマブイを消費して一気にバンクの最上部、カントの頂点へと駆け上がったのだ。
「見ろ! 牛島の『重力加速』だ!」
実況の声が響く。牛島は自身の重いスーツを重力に従わせ、絶壁を「滑り落ちる」ことで爆発的な位置エネルギーを速度へ変換。健吾の鼻先へ強引に割り込んだ。
150kgを超える鉄塊が、頭上から降ってくるような威圧感。健吾は反射的にブレーキをかけそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
「クソッ、前が見えねぇ……!」
牛島の巨大な背中が巨大な壁となり、健吾の視界を完全に遮断する。
さらに宇和島特有の地獄が健吾を襲った。擂鉢状のバンクの底には、先行する他車の「排気マブイ(燃焼しきれなかった精神エネルギーの滓)」が重く淀んでいた。
(熱い……空気が薄い……! ギアが、重すぎる!)
急カントによる横方向の重力(G)に耐えるだけで、健吾の外付マブイはみるみる削られていく。肺に吸い込むのは、他人の焦げ付いたマブイの臭い。意識が朦朧とする中、背中の『炎』のラジエーターが警告音を鳴らす。
残り一周。
牛島は、勝利を確信したようにその重厚なスーツをさらに横に振り、健吾の進路を物理的に塞ぐ「角」を繰り出してきた。
「どけ、新人! 宇和島の土になれ!」
牛島の排気ダクトから、健吾のフロントタイヤを焼き切らんばかりの熱風が噴き出す。逃げ場はない。外は牛島の巨体、内側は重力による滑落の深淵だ。
(……いや、まだだ。兄貴なら、この『重さ』をどう受ける?)
健吾の脳裏に、下関の荒波を、水の抵抗を微塵も感じさせず滑走する兄・誠の姿が浮かんだ。
「健吾、流れを止めるな。逆らうんじゃなく、利用しろ」
健吾は、腰部に埋め込まれた兄譲りのパーツ――『流体スタビライザー』のスイッチを親指で弾いた。
水の上でボートを水平に保つ超高精度ジャイロ技術が、今、垂直に近いアスファルトの上で異能を発揮する。
健吾はあえて、牛島の懐――最もカントがきつく、本来なら滑落して自滅するはずの「最短ルート」へ、車体を真横に倒し込んだ。
(重力に逆らうんじゃない。重力と『同調』するんだ!)
健吾は、スーツの両肩にある冷却フィンを全閉。内部に溜まりに溜まった超高温のマブイを、一気に「左側の噴射口」だけに集中させた。
「マブイ・非対称噴射!!」
「なにッ!?」
牛島が驚愕に目を見開いた。
健吾の自転車は、重力で内側に落ちようとする力を、左側への強烈な噴射エネルギーで完全に相殺。
まるで透明なレールに固定されているかのように、垂直に近い壁を「真横」に切り裂き、牛島の巨体の下を潜り抜けたのだ。物理法則を「熱」で書き換えた瞬間だった。
「おおおおおおっ!!」
最終コーナー、擂鉢の底から紅い閃光が飛び出した。
健吾の『炎(HOMURA)』が、牛島の重厚な装甲を切り裂くような速度で、ゴール板へと突き刺さる。
背中のラジエーターからは、限界を超えたマブイが紅蓮の炎となって吹き出していた。
『1着:速水健吾(阿蘇)』
ゴールラインを越えた瞬間、健吾の意識は途切れかけ、自転車とともにバンクの平地部分(退避路)へと倒れ込んだ。
激しく咳き込む彼のスーツからは、焦げたマブイの匂いと、真っ白な蒸気が立ち昇っている。
「……ヘッ。兄貴、宇和島の壁は、阿蘇の峠より少しだけ急だったぜ」
そこへ、敗れた牛島がゆっくりと自転車を漕ぎ寄せてきた。巨漢のスーツからはパチパチと放電の音がしている。
「……ったく。重力を無視しやがって。速水、その『水の技術』と『山の熱』……面白れぇじゃねぇか。早くS級(最上位)に上がってこい。本当の地獄を見せてやる」
牛島はそう言うと、無骨な「鋼鉄のグローブ」を差し出した。
健吾は、まだ痺れが残る手で、その熱い掌を握り返した。
これが、プロレーサー速水健吾としての、本当の第一歩。
阿蘇の噴火が、全国の競輪場を赤く染め上げる物語は、ここから加速していく。




