第五話:魂の器(マブイ・コンテナー)
からくり競輪における「風」の支配と戦術的影響
2036年の「からくり競輪」において、風は単なる自然現象ではない。それは「目に見えない壁」であり、同時に「マブイを削り取る死神」でもある。時速100キロメートルを優に超えるからくり自転車の速度域では、空気抵抗は速度の二乗に比例して増大し、選手の精神エネルギーを無慈悲に浪費させる。
向かい風(先行殺し)――正面から吹き付ける風は、先頭を走る「自力選手」のマブイタンクを急速に空にする。これを突破するには、マブイを層状に重ねて風を切り裂く「マブイ・ウェッジ」の技術が不可欠となる。
追い風(捲りの加速)――背後からの風は、後方から一気に加速する「捲り(まくり)」の選手にとって強力なブースターとなる。追い風に乗ったマブイの爆発力は、計算上の最高速度をさらに20%以上引き上げる。
横風(落車の罠)――擂鉢状の急カントで横風を受けると、車体のバランスが崩れ、マブイの同調が途切れる。一瞬の隙が、脊髄インターフェースの逆流を招き、再起不能の落車を引き起こす。
風を殺すか、風に乗るか。あるいは風を「熱」に変えるか。それがプロのバンクで生き残るための絶対条件である。
阿蘇の裾野、地熱の白い蒸気が大地の裂け目から静かに立ち昇る「阿蘇特機工房」。
鉄魂学園の卒業記念レースを、文字通り心身を削りきって生き残った速水健吾は、そこにいた。彼は、ズタズタに引き裂かれ、焦げ付いたグレーの訓練用スーツを、かつての恩師・不破源三の前にそっと置いた。
「源さん……。もう、こいつじゃ無理だ。あのレースで、俺は死にかけた。俺のマブイを、この標準型のギアはもう受け止めきれねぇんだ」
源さんは、何十年もの間、油と煤にまみれてきた太い指でスーツの焼けた端子をまさぐり、鼻で小さく笑った。
「当たり前だろ、坊主。お前のマブイは、普通の人間のそれとは『層』の厚さが違いすぎる。量産型の細いバイパスじゃ、マブイの奔流が詰まって逆流するのも当然よ。お前は今まで、ストローで火炎放射器を吹こうとしてたようなもんだ」
源さんはそう言うと、工房の薄暗い奥から、埃を被った重々しい黒鉄のフレームを引っ張り出してきた。それは、最新のカーボン軽量素材とは真逆の、鈍く光る無骨で威圧的な「プロトタイプ」だった。
「いいか健吾、お前のマブイは熱すぎる。なら、その熱を冷まそうなんてケチなことは考えるな。その余剰熱を全部、前にぶちまけて推進力に変えちまえ」
源さんが指し示したのは、背中から両肩にかけて増設された、阿蘇の火口を思わせる放射状の巨大冷却フィンだった。
通常のスーツが「冷却」に心血を注ぐ中、この特注品は排熱を敢えて後方へ指向性を持って噴射する。「熱噴射マブイ・ジェット」。風の抵抗を、自らの排熱による圧力隔壁で相殺し、爆発的な加速を可能にする狂気の設計だ。
学園で算盤陣たちが金科玉条としていた「効率至上主義」を、源さんは一蹴した。
「プロのバンクじゃ、綺麗事(数字)は通用しねぇ。最後は『トルク』が全てだ」
クランクの歯車一枚一枚には、阿蘇の火山岩で何度も焼き入れを繰り返した特注の「黒金合金」が採用された。
健吾のコアマブイが2500のフルバースト状態になっても、あるいは逆流の衝撃を受けても、決して焼き付かず、逆に相手のラインを粉砕するほどの地獄のような耐久性を持たせた。
「……源さん、これ。兄貴から届いたパーツか?」
健吾が気づいたのは、腰部に埋め込まれた見慣れない小型ジャイロデバイスだった。そこには「SHIMIZU」の刻印がある。
「ああ。下関の清水誠から、お前への卒業祝いだ。『弟の暴走を止めるのは、水の静けさだ』だとよ。生意気な野郎だが、腕は確かだ」
競艇の超高速ボートで培われた姿勢制御技術。それを自転車の挙動に応用した。
猛烈な加速と、急カントでの殺人的な横Gの中でも、マブイの波形を一定に保ち、決して「落車」させない安定性を与えたのだ。熱狂する健吾の魂に、兄の冷静な「水」が注ぎ込まれた。
新生スーツの名は――『阿蘇・炎(ASO-HOMURA)』。通称、『炎』。
完成したその漆黒と真紅の機体に、健吾が脊髄インターフェースを接続した瞬間だった。
「――ッ!」
今までのどのスーツとも違う。まるで全身の血管が一気に拡張し、大地を流れるマグマが自分の神経系に流れ込んできたような一体感。
軽く意識を集中させただけで、背中のラジエーターが「シュォォォッ」と低く唸り、命を喰らう吸気音が工房に響き渡る。
「これだ……。これなら、あの算盤みたいな計算を、力ずくで蹴散らせる」
源さんは最後に、真っ赤な耐熱ペイントを健吾のヘルメットに吹き付け、その背中を、掌の跡が残るほど力強く叩いた。
「行け、健吾。プロのバンクは学園の百倍濁ってる。マブイを盗もうとする奴、心を折りに来る奴、汚い手を使う奴……腐るほどいる。だがな、お前がその火を絶やさねぇ限り、阿蘇の山がお前の背中を、ずっと押し続けてくれる。風を恐れるな、お前自身が風になれ」
健吾のプロ初戦の舞台が決まった。
場所は、兄・誠の地元である山口県からもほど近い、愛媛県「宇和島競輪場」。
通称、『闘牛の擂鉢』。
全国でも屈指の400メートルバンクだが、そのカントのキツさと、宇和海から吹き込む不規則な強風は、数々の新人を「魂の廃人」へと追い込んできた。
特に最終ストレート、海側から吹き下ろす通称「宇和島の魔風」は、先行選手のマブイを文字通り根こそぎ奪い去る。
「第1レース、発走準備」
検車場には、百戦錬磨のベテランたちが、得体の知れない威圧感を放って並んでいた。彼らのスーツは傷だらけだが、そこから漏れ出るマブイは、学園のエリートたちのような「美しさ」はない代わりに、底知れない「粘り」と「殺意」に満ちている。
「おい、新人。その真っ赤なスーツ、目立ちすぎて標的になるぜ」
隣に並ぶベテランレーサーが、濁った声で笑う。
健吾は答えなかった。ただ、ヘルメットのシールドを下ろし、脊髄に『炎』をプラグインする。
(風が強い……。だが、関係ねぇ。俺の『炎』は、風を食って大きくなるんだ)
号砲が鳴り響く。
健吾のプロとしての、真の「一回転」が始まった。
スタート直後、案の定、宇和島の魔風が正面から健吾を襲った。
だがその瞬間、『炎』の両肩にあるラジエーターが、眩いばかりの紅蓮の光を放った。
「――熱噴射、開始ッ!」
ドォォォォォォン!!
向かい風を熱で膨張させ、気圧の壁を強引に突破する。
観客席からは、まるで一本の火柱がバンクを駆け抜けていくような光景に見えただろう。
ベテランたちが、驚愕の声を上げる。
「なんだあの加速は!? 向かい風を無視してやがる!」
健吾の視界には、ただ一本の「道」が見えていた。
それは阿蘇の火口へと続く、熱く、激しい、勝利への道だ。
「見ててくれ、兄貴。これが、俺の選んだ『火』の答えだ!」
宇和島の擂鉢の底で、かつてないマブイの爆発が起ころうとしていた。
これが、のちに伝説の「阿蘇の噴火」がプロの荒波を飲み込んでいく、最初の嵐となったのである。




