第十話:無限の直線、枯渇の果て
からくり競輪の聖音「打鐘」の儀式
からくり競輪において、残り一周半(あるいは残り600mから400m)の地点で打ち鳴らされる「打鐘」は、単なる合図ではない。それは、バンク内に渦巻く全選手の「マブイ(精神エネルギー)」を沸点へと導く、開戦の鐘である。
打鐘の定義――審判員が手動、あるいは自動制御で鐘を連打する。この音が響いている間、選手は「誘導員」の風除けから解放され、自らのマブイのみで加速を開始する権利を得る。
マブイの同期――打鐘の金属音は特定の周波数に調整されており、選手の脊髄インターフェースに「リミッター解除」の信号を送る。この瞬間から、各スーツの排気ダクトからは極彩色の熱気が噴き出し、バンクの気温は一気に5℃以上上昇する。
心理的影響――ジャンが鳴り響く中、選手たちは「仕掛けるか、待つか」の究極の選択を迫られる。先行選手にとっては「死へのカウントダウン」であり、捲り選手にとっては「獲物への跳躍」の合図となる。
舞台は、東北の巨龍――仙台競輪場。
周長500mという国内最大級の広さを誇るこのバンクは、直線が異常に長く、先行選手にとっては「無限の廊下」とも呼ばれる絶望の地である。
仙台の蒼天、影を焼き払う独走
「あんなもん、滑走路じゃねぇか……」
宮城・仙台競輪場の検車場。速水健吾は、広大な500mバンクを見上げて、独りつぶやいた。
400mバンクに比べて、コーナーが緩やかで直線が極端に長い。これは、後方の選手が先行者の背後でマブイを極限まで温存し、最後の最後で「差す」ための時間がたっぷりと用意されていることを意味する。ここで単騎の逃げを打つのは、自ら「動く標的」になるような自殺行為だ。
この日の一般戦、健吾の隣には不気味な男が立っていた。小倉支部の刺客、影山零。
影山の纏うスーツは、健吾の『炎(HOMURA)』とは真逆のコンセプトで設計されていた。徹底的な「消音」加工。健吾のような爆発的な排気音も熱気も出さず、周囲の気流に溶け込み、獲物の背後にピタリと張り付く死神。
「速水。高松での大逃げ、データで見させてもらったよ。派手な花火だったね。……でも、ここは仙台だ。君が風を切り裂けば切り裂くほど、僕の『影』は濃くなる。君のマブイが尽きるまで、僕はずっと君の真後ろに居続けよう」
影山の声には抑揚がなく、まるで機械が喋っているかのようだった。
「構えろ!」
号砲とともに、1番車の健吾は迷わず前へ出た。外付タンクを捨て、コアマブイ直結となった『炎』が、仙台の冷たい空気を切り裂く。
「また行った! 阿蘇の速水健吾、一人で主導権を取る!」
健吾は巨大な500mバンクを、たった一車で疾走する。
しかし、高松の時とは決定的に違う感触があった。背後に、気配がないのだ。
影山零は、健吾が作る真空地帯に、文字通り「吸い付く」ように追従していた。影山のスーツは健吾の排気熱を逆に自身の冷却に利用し、自らのマブイ消費を10%以下に抑えている。
(……後ろに、何かいやがる。音も熱もねぇ、重い『影』が……!)
健吾の背中に冷たい汗が流れる。漕いでも漕いでも、影山を振り払うことができない。
カラン、カラン、カラン……!
仙台の空に、打鐘が鳴り響いた。
「ジャンが鳴った! 速水、逃げる! 影山、追う! その差、わずか30センチ!」
健吾のコアマブイ2500は、この広大なバンクの風圧によって、すでに臨界点に達しようとしていた。500mバンクの広さは、選手の肉体だけでなく精神をも磨り潰す。第四コーナーを回っても、まだゴール板は見えない。
(まだか……まだゴールは遠いのか!? 兄貴、この道は……どこまで続いてるんだ!)
視界が白濁し、意識が遠のきかける。
そこへ、ついに影が動いた。
「――仕掛けるよ、速水。君の役目は終わりだ」
影山が、ついに音もなく横に並びかけた。マブイを温存しきった影山の加速は、まさに一陣の涼風。健吾の横を、死神の鎌が通り過ぎようとしていた。
(……影山。お前が俺の影に隠れるのが好きなら、その影ごと焼いてやるよ!)
健吾は、源さんから教わった「禁じ手」を繰り出した。
彼はあえてクランクの回転リズムをコンマ数秒ズラし、スーツの燃焼効率を「最悪」の状態に落としたのだ。
本来なら、出力が低下し失速するだけの行為。しかし、源さんが施した『マグマ・ラジエーター』が異音を立てて咆哮し、排気口から真っ黒な、油分を含んだ「マブイの煤」が大量に噴出された!
「なっ……視界が!? スーツの吸気口に煤が詰まる! 演算が……!」
影山の「消音ギア」は精密すぎるがゆえに、この「マブイの燃えカス」という物理的な不純物に過剰反応を起こした。影山のセンサーがジャミングを起こし、自動制御システムが一時的なフリーズに陥る。
「俺の火は、綺麗なだけじゃねぇんだよッ!!」
「おおおおおおおっ!!」
影山が怯んだ一瞬の隙。
健吾は、もはや感覚のなくなった両足ではなく、脊髄に直接刻み込まれた「意志」でクランクを回した。
膝の震えが止まらず、脳内の血管がブチ切れそうな激痛が走る中、前輪が仙台の長い直線の果て、白い線を越えた。
『1着、1番車・速水健吾! 逃げ切り、一般戦初優勝!』
ゴールを通過した瞬間、健吾は自転車を降りることすらできず、そのままバンクの芝生の上へと横転した。
真っ黒な煙を吐き続ける『炎』の中で、健吾はヘルメットのシールドを上げ、空を見上げた。
仙台の、高く、蒼い空。
そこには、下関の海でも阿蘇の山でもない、彼自身が泥を啜り、風を焼き切り、独りきりで掴み取った「勝利の風」が吹いていた。
敗れた影山が、ススで真っ黒になったスーツを脱ぎ捨て、呆然と健吾を見下ろしている。
「……汚いな。でも、君のその濁った熱に、僕の計算は負けたよ」
健吾は荒い息を整えながら、空に向かって拳を突き出した。
「……見てたか、兄貴。俺は……俺のやり方で、プロの風をブッ壊してやったぜ」
阿蘇から始まった少年の旅は、今、プロとしての「第一の絶頂」を迎えた。
速水健吾、19歳。
彼が巻き起こす「火の旋風」が、全国の競輪場を赤く染め上げる物語は、まだ始まったばかりだ。




