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からくり競輪 ー烈風のマブイー  作者: 水前寺鯉太郎
プロデビュー編

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第九話:死出の大逃げ

からくり競輪における「決まり手」の真実

 2036年のからくり競輪において、公式記録に刻まれる「決まり手」は、単なる着順の経緯ではない。それは、選手がどのような「魂の燃焼マブイ・バーン」を選択し、いかにして勝利を捥ぎ取ったかを示す、戦士の刻印である。

 逃げ(にげ)――残り一周(打鐘付近)から先頭に立ち、そのままゴールまで粘り切る戦法。からくり競輪では、自身のマブイを一定の圧力で放出し続ける「定常燃焼」の技術が問われる。

 捲り(まくり)――後方に待機し、最終コーナー付近で一気にマブイを爆発させて前方を飲み込む戦法。瞬間的な「過給ブースト」の出力が勝負を決める。

 差し(さし)――ゴール直前、先行選手が切り裂いた風の隙間スリップストリームを突き、寸前で追い抜く戦法。他者のマブイの余熱を利用する「同調シンクロ」の精度が鍵となる。

 マーク――先行選手の後ろ(番手)を死守し、2着に流れ込むこと。

 そして、健吾が挑むのは、現代のからくり競輪では「自殺行為」として忌避される、伝説の決まり手――「大逃げ(おおにげ)」である。

 高松の凪、紅蓮の独走

 香川県、高松競輪場。瀬戸内海から吹き込む湿った風が、バンクに独特の重圧を与えていた。

 発走機に並ぶ六車。1番車、速水健吾の背中には、昨日まであった重厚な「外付マブイタンク」がない。剥き出しのフレームと、脊髄から直接クランクへと伸びる銀色の神経端子。その異様な姿に、場内には静まり返ったような緊張が走っていた。

 狂気の「残り二周」カマシ

 「おい、速水の野郎……タンクを捨ててやがる」

 後方ラインの羽柴翼が、自身のセンサーに映る健吾の異常なエネルギー波形を見て舌打ちした。「予備電源なしで、この400mバンクをどう走るつもりだ?」

 通常のからくり競輪では、勝負が動くのは残り一周半から一周。それまでは互いにマブイを温存し、風の抵抗を計算しながら「溜め」を作るのが鉄則だ。

 しかし、健吾は違った。

 残り二周半のホームストレッチ。まだ誰もが静寂の中で牽制し合っていたその時、健吾の『炎(HOMURA)』が、鼓膜を突き刺すような高周波の異音を発した。

 「ギィィィィィィィィィン!!」

 「なっ、速水!? 早すぎるぞ、正気か!」

 羽柴が叫ぶ。残り二周を告げる「赤板あかばん」を通過する遥か手前。健吾は全マブイを回路に直結させ、一気に加速した。からくり競輪の歴史を嘲笑うかのような、狂気の「大逃げ」の号砲だ。

 「単騎の大逃げ」の絶望的リスク

 からくり競輪において、単騎での大逃げがいかに無謀かは、観客席の子供ですら知っている。

 第一に、マブイの完全枯渇だ。二周(約800m)を時速80km以上の全速で走り抜くには、通常のレースの3倍以上のマブイを消費する。外付タンクを持たない健吾にとって、それは文字通り自分の「命の芯」を削る行為だ。ゴールまで持たずに「ガス欠」を起こし、最後は歩くような速度で飲み込まれるのが関の山。

 第二に、「後方の団結」を招く。一人が極端に逃げれば、それまで敵対していた後方の2つのラインが、一時的に「共通の敵」を追うために共闘を始める。5人で交代に風を切り、効率的に追いかけてくる集団に、たった一人のマブイで勝ち続けるのは、物理学的にも不可能に近い。

 しかし、健吾の瞳に迷いはなかった。

 (……昨日の俺は、お前らの影を、風を気にしすぎた。だったら、追いつく気も失せるほど、遠くへ行くだけだ!)

 阿蘇式・過給オーバーブースト

 「熱い……でも、回れッ! 回ってくれ、『炎』!!」

 健吾は不破源さんのカスタムを信じ、脊髄インターフェースを意識の深淵まで深く押し込んだ。

 背中のラジエーターから、陽炎のような排気熱が猛然と吹き出す。自転車は時速80km、85km、そして90kmへと、競輪の常識を置き去りにして加速していく。

 後方の羽柴たちは、最初こそ「どうせ最後に垂れる(失速する)」と高を括っていた。だが、その差は10メートル、20メートル、そして30メートルと広がる一方だ。健吾が切り裂いた空気の摩擦熱が、後方の追撃部隊のセンサーを狂わせ始める。

 凪を切り裂く一筋の紅

 「速水健吾、完全なる一人旅! これは競輪か、それとも銀河を駆ける脱走か!? 後方はまだ動けない、いや、動かしてもらえない! 風の壁を一人で粉砕しながら、阿蘇の火の粉を撒き散らして突き進む!」

 実況の絶叫が、高松の海風に溶けていく。

 残り一周。健吾の視界はコアマブイの過負荷で真っ赤に染まっていた。スーツの関節部からは「キシキシ」と過給に耐えかねる悲鳴が上がり、脊髄には焼けるような激痛が走る。

 (兄貴……見ててくれ。ラインも、風も、全部置き去りにしてやる。俺だけの、俺にしか見えない景色を掴み取ってやるんだ!)

 後方の羽柴たちが慌てて追撃を開始した時には、健吾はすでに最終バックストレッチを通過していた。羽柴が必死に「風の道」を作り、総力戦で追い上げるが、健吾が残した「マブイの熱風」が、追撃集団の視界を歪め、吸気口から入る熱い空気が彼らの冷却システムを麻痺させる。

 「クソッ、近づけねぇ! あいつの通った跡は、空気が焼けてやがる!」

 決着:孤独なる勝利

 最終コーナー。健吾の足からは、すでに感覚が消失していた。

 マブイを使い切り、筋肉が焼き切れるような痛みの後、訪れたのは奇妙な静寂だった。耳に入るのは、自身の「炎」が吐き出す排気音だけ。

 世界から音が消え、ただ一本の白い線――ゴール板だけが、スローモーションで近づいてくる。

 ドォォォォォン!!

 単騎の孤独な影が、二位以下を置き去りにして、最初にゴール板を駆け抜けた。

 1着:速水健吾(阿蘇)

 記録は、「大差たいさ」。

 2位の羽柴翼を5秒以上引き離す、からくり競輪史上でも類を見ない記録的圧勝だった。

 ゴールを通過した直後、健吾は姿勢を保つ力すら残っておらず、自転車ごとバンクに激しく倒れ込んだ。

 大逃げを決め、一人で風を切り裂き続けた代償は大きく、スーツの排気口からは真っ黒な煙が上がり、路面にはタイヤの焦げた跡が刻まれている。

 観客席は、あまりの衝撃に一瞬静まり返った後、地鳴りのような歓声に包まれた。

 「バカげてる……。でも、あいつ、本当に一人で逃げ切りやがった!」

 「あれが……『阿蘇の噴火』か!」

 羽柴翼が、遠く離れた2着でゴールし、バンクに倒れている健吾の傍らに降り立った。彼のスーツもまた、健吾の熱風で各所が変色している。

 「……イカれてるよ、速水。お前、そんな走り……プロで長くは持たないぞ。いつか本当に、魂が燃え尽きちまう」

 健吾は、仰向けに転がったまま、荒い息の下で、空を見上げて薄く笑った。

 「……長く持たせるつもりはねぇ。一瞬でも、誰よりも熱く回ってりゃ、それでいいんだ。……兄貴、俺……今、最高に自由だぜ」

 香川の空を流れる雲が、健吾の目に優しく映った。

 ラインを捨て、単騎を選び、そして「大逃げ」で勝利を掴んだ少年。

 速水健吾の名は、この日を境に、単なる新人の枠を超え、競輪界を震撼させる「制御不能の熱源」として、全国のファンとレーサーの記憶に深く刻み込まれたのである。

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