2、第1層にて
目の前で仲間が大きな蜘蛛に食われた。
何を言っているのかと思うが、冒険者のマルクスは今自分が見た光景を他に言いようがなかった。うっかり、不注意、ちょっとした気の迷い、判断力の低下、呼び方はなんでもいいのだけれど、つまり、この迷宮において致命的なミスをしたのだ。
マルクスは即座に自分ともう一人、同じ枝級の冒険者ニールの手を引いて走り出す。仲間の断末魔の悲鳴がこだまし、逃げ出したマルクスを罵る声は後ろとそして繋いだ手の先から聞こえる。
「助けないと、ねぇ!!!!!」
「どうやってだ!?膜の内側に入り込まれたんだぞ!!」
同じ目にあいたいのかと、マルクスは怒鳴りたかったが、怒鳴ればその分酸素が減る。迷宮において、走ると言う行為は可能な限り避けるものだ。走るにしてもどこまで、何秒と計算して行うべきところ、マルクスは自分の膜の内部の酸素が汚れて薄くなっていくのを感じながら、それでも立ち止まれない。
マルクスの魔力での可能な呼吸回数は最大連続七回。第一層で安静にした状態ならその膜は40分は持つが、自己回復は一回分につき120分必要だった。つまり最低でも3回残した状態でなければ迷宮内で活動できない。
走り続けてようやく事態が理解できたのか、ニールが手を振り払い自分の速度で走り出す。繋がっていた酸素の膜が分かれる。
二人は旅行者でもあった。最近話題のアリアドネの迷宮。出現した当初は魔素への対応先がなかったが、5年ほど前に西の賢者が酸素の膜張る魔術を生み出した。元々は陸に住む魔物が、海中の獲物を獲るために本能的に使用していた魔法を人間が使用できるように解析したのだと言う。魔術協会はその術を広く公開し、魔力があるものであれば発動できるよう5年かけて簡略化し、秘術であったそれは今では冒険者であれば誰でも使用できる一般的な魔術となった。
それで、その魔術を使ってアリアドネの迷宮探索をしよう、というのは、何も迷宮をみくびっていたわけではない。たとえ海中で息ができるようになったといえど、油断し物見遊山で海獣の巣に行く者がいないよう、冒険者としてプロ意識もあるマルクスとそのニールは地元の冒険者一人誘い、第一層情報も集めて、六時間だけと時間も決めて迷宮に潜ったのだ。
「光の当たらない森林、この区域は生物がいないはずだッ!」
事前調査はきちんと行なった。最新の手引書と、最近潜った冒険者たちの話を聞き危険な場所、時間帯、注意点を事細かに調べて、油断はなかったはずなのだ。
だが、仲間が蜘蛛に襲われて、空気の膜の内から食い尽くされ、魔素に触れた骨が分解され迷宮に取り込まれた。
マルクス呼吸が恐怖から早くなり、先ほど張り直したばかりの酸素の膜が薄くなる。残り可能回数は2回。ニールはいつの間にか一緒にいなかった。逸れたのか、あるいは知らない間に魔物に襲われていたのか、マルクスにはわからない。
「……………ッ」
迷宮の入り口の方向を完全に見失った。余裕があれば探しに行けるが、マルクスじわじわと、自分の周りに小さな蜘蛛が集まっていることを理解していた。膜の内側に入ってくる迷宮生物。この第一層にそんな生物は記録されていない。
つまり、この記録伝える責任がマルクスにはあった。
知らないから死んでいくのだ。
迷宮は冒険者たちの血で地図が描かれていく、マルクスが手に入れた手順書もそうだ。自分がその恩恵に預かるだけ、であるはずがない。
じりじりと迫ってくる蜘蛛の群れを睨みつけ、マルクスはゆっくりと呼吸を整えた。
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「おい、アンタ。この先の草むらには入るなよ。死体蟲の卵がうようよいるからな」
第一層の浅瀬付近で、比較的安全な区域とされているがトーカスはキョロキョロと辺りを伺い、今すぐ走り出して恋人捜索をしかねないヘンリーに釘を刺した。
「それくらい僕も知っています。迷宮における外来種ともいえる生物ですよね」
「外来種、って言い方は少し違うだろうがな、まぁいい。ちゃんわかってるのか?」
迷宮を息を止めれば進めると考えていた素人が、とトーカスはヘンリー疑い深そうにながめる。
「わかっていますよ、死体蟲、もともと迷宮では脅威ではなかったこの空間における微生物が、冒険者たちが持ち込んだ酸素によって進化したんでしょう?」
「合ってるじゃねぇか」
「僕がとんでもない回答をするのを期待していたんですか」
「いや、そういうわけないが、まぁ、酸素なんて本来存在しなかったものが迷宮に入るようになって、迷宮も変化してるってこったな」
今知る知識が数秒後には使い物にならなくなる可能性もある。だから為政者たちは迷宮を禁足地にしなかった。年間何百もの死者行方不明者を出そうとも、送り出しその数の分だけ情報が手に入るとそのように。冒険者は身分問わず、だが最低限文字が書けることが条件なのはそういうことだろう。
トーカスは手順書を捲る。
この死体蟲の存在を発見したのは、第一層の緑逆熊を討伐した幹級の冒険者だ。その魔物の胃袋の中に食われた枝級の冒険者の残骸があり、魔力で守られた紙切れに書かれた血文字から、枝の冒険者の死因を探った。
「……………」
今では誰も死体蟲自分の膜の内側に発生させるヘマはしない。それは自分たちが優秀だから、ではなく、危険を知らせた者が過去にいて、警戒できるようになったからだ。
トーカスは手順書懐にしまう。
いつか十一層に人類届く日が来るとして、それまでどれくらいの人間がそこに辿り着くために死んでいくのだろう。
「馬鹿馬鹿しいな」
「何か言いました?」
なんでもない、とトーカスは答えた。少し後ろをおっかなびっくりとついてくる青年、自分で酸素の膜も張れないくせに、迷宮にロマンも叡智も希望も未来も抱いていないくせに、それでも迷宮に入ろうとするこの愚か者。死ぬとわかって、死ぬことを目的に進んでいる。
トーカスにとっては、キラキラ夢を語る冒険者より随分マシに思えるのだ。




