第9話 十人目・皇絢音③
土曜日、午前九時ちょうど。
十月も間近に迫った朝の日差しには、まだ夏の名残があった。けれど、広場を吹き抜ける風には、ほんの少し秋の匂いが混じっている。
俺は駅前広場の中央にそびえ立つ、通称『土下座像』の前に立っていた。
正式名称は知らない。名前の書かれたプレートも掠れていて読めない。
たぶん偉い人が何かに感謝している銅像なのだろうが、地面に両手をつき、あまりにも見事な角度で頭を下げているため、学生たちからはもっぱら土下座像と呼ばれ、駅前の定番待ち合わせスポットとなっていた。
約束の時間は十時。
つまり、俺は一時間も早く来てしまったことになる。
今からここに、皇絢音がやってくる。
あの皇グループ会長の孫娘で、容姿端麗、成績優秀の生徒会長。学園を支配する女王陛下と、一部では本気で呼ばれている存在だ。
「……俺が土下座する未来を暗示してたりしないよな」
像を見上げて独り言をこぼした、その時だった。
「誰に土下座するつもりですか?」
「うおっ!?」
背後から聞こえた凛とした声に、俺は変な声を上げて振り返った。
そこに立っていたのは、いつもの制服姿ではない絢音だった。
白いブラウスに、落ち着いた紺色の膝丈スカート。肩からは淡いベージュの薄手のカーディガンを羽織り、すらりと伸びる艶やかな黒髪が、淡い色合いの服装によく映えている。
いつもの切れ長の瞳はそのままなのに、私服になるだけでずいぶん印象が違って見えた。
絢音の私服姿を見るのは、いつ以来だろう。
俺も絢音も幼稚園の頃からずっと同じ学園に通っているせいで、校内では制服姿しか見ない。最後に見た私服姿なんて、もしかすると小学生の頃かもしれない。
「な、なんですか。その顔は」
「いや……絢音って、私服だと雰囲気変わるんだなって」
「そ、そうでしょうか」
絢音は一瞬だけ視線を逸らし、指先でカーディガンの袖口をつまんだ。
「変、ですか?」
「いや、似合ってる。すごく」
「……っ」
絢音の耳が、ほんのり赤く染まった。
その反応が意外で、俺は思わずまじまじと見てしまう。
「そ、それにしても、約束の時間よりずいぶん早いのではないですか?」
「あ、ああ。どうにもソワソワして、いてもたってもいられなくてさ。早く来ちゃったんだよ」
「そ、そうですか。わ、私も……」
「私も?」
「いえっ、なんでもありません! そ、それより朝倉くん。本日の予定を組んできたのですけれど」
絢音は小さなバッグから、きっちり三つ折りにされた紙を取り出した。
広げると、そこには分刻みのスケジュールが印刷されていた。
『十時〇〇分 土下座像前集合』
『十時一五分 映画館へ移動』
『十時三〇分 映画鑑賞』
『十二時四五分 昼食』
『十四時〇〇分 ショッピングモール散策』
『十六時三〇分 解散』
俺はそのスケジュールと真剣な顔をする絢音を見比べた。
「学校行事……?」
「いえ、貴方の気晴らし工程表です」
俺はぷっと吹き出した。
生徒会長っぽいけれど、絢音が一生懸命に考えてくれたことが嬉しくなった。
「変……でしたか?」
「いや、考えてくれてありがとう。でも予定の時間より早すぎたな。どこかで時間潰す?」
「い、いえっ。前倒ししましょう! 時間が、その。もったいないですから」
「ありがとな」
「別に……。お詫びですから」
「それでも嬉しいよ」
「……すぐそういうことを言う」
「え?」
「何でもありません。行きましょう」
ぷいっと横を向き、絢音は歩き出した。
俺は慌ててその隣に並ぶ。
制服姿の彼女の横をいつも歩いているのは、生徒会の二年女子の副会長と、一年男子の書記だった。
けれど今、私服姿の絢音の隣を歩いているのは俺一人。
それがなんだか、とても誇らしく思えた。
◇
「何を観ますか?」
映画館の入り口にずらりと並ぶポスターの前で、絢音がそう尋ねた。
「そうだなぁ。幼馴染作品は無さそうだし……この『アルテアと銀の剣』っていうヒロイックファンタジー、面白そうだな」
「私は、この『針』という作品が気になるのですが」
「これは……すげー重そうだな」
「そうですか……? では、この『あの丘のオーベルジュ』という作品はどうでしょう?」
「なんだか腹が空きそうな映画だな」
「ダメ、でしょうか」
心なしか、絢音が少しだけ肩を落としたように見えた。
「いや、これ観よう! お昼前だから、お腹を空かせるにはちょうどいいし!」
そう言って、俺は絢音の手を引き、自動券売機の前に立った。
画面を右手で操作する。
「あ……あの」
「座席はどこがいいかな。前すぎると首が痛くなっちゃうから、後ろの方がいいよな」
「あの!」
「絢音、座席の位置の希望、ある?」
「い、いえ。お任せしますけど。……そ、その。手を……」
そう言われて初めて、俺の左手が絢音の右手を握っていることに気づいた。
「ご、ごめん!」
俺は慌てて手を離す。
「い、いえ。大丈夫です」
絢音はそう言って、繋がれていた右手にそっと左手を重ねた。
てっきり「不潔な手で触らないでください」とハンカチで拭われるかもしれないと思ったが、そんな素振りはなかった。
ホッと息を吐いた、その時。
俺はふと背後を振り返った。
「……どうかしたんですか?」
絢音が怪訝そうな顔をする。
「いや、誰かに見られてるような気がして。気のせいだよな。ははは」
「そうですか。今日は私も付き人は不要と言ってありますので、ついてきてはいないと思うのですが」
「付き人。いるんだ……」
「いますよ。祖父がうるさいので」
そういえば、絢音は登校も高級車で送り迎えされている。休日に付き人の一人や二人いてもおかしくはない。
もしかしたら、こっそり見張られているのかもしれない。
迂闊なことをしないように気をつけないと。
……いや、そもそも迂闊なことって何だ?
そんなことを考えながら、俺は二人分のチケットを購入した。
◇
映画は、海の見える丘の宿を舞台にした物語だった。
主人公は、自分の料理が分からなくなった料理人志望の女性。彼女が老いた料理人を訪ね、料理する意味と、美味しいとは何かを見つけていく。
派手な事件はない。
けれど、スクリーンに映る見たことも聞いたこともない料理は、輝いていて、香りが漂ってくるようで。
主人公が料理を口に運ぶたびについ唾を飲み込んだ。口からはみ出さなかったことを褒めて欲しい。
隣の席では、絢音が背筋を伸ばしたまま、じっとスクリーンを見つめていた。
そして、映像が映る彼女の瞳がわずかに揺れるのに気づいてしまった。
ラスト。主人公が老料理人と最後に会話する場面で、隣から小さく鼻をすする音がした。
ちらりと横を見ると、絢音は何事もなかったかのように前を向いている。
けれど、その目尻はほんの少しだけ濡れていた。
俺は何も言わず、ポケットからハンカチを取り出して、そっと彼女の膝の上に置いた。
「……」
絢音は一瞬だけこちらを見る。
それから、何も言わずにハンカチを受け取った。
スクリーンの淡い光の中で、彼女の耳がまた少し赤く染まった気がした。
◇
「いい映画だったな」
映画館を出る頃には、時刻はちょうど昼を少し回っていた。
「ええ。まさか、あの老料理人にあんな秘密があったなんて……驚きました。それに」
「それに?」
俺も思わず続きを促す。
「「料理が美味しそうだった!」」
声が、ぴたりと重なった。
一瞬、俺たちは顔を見合わせる。
「ふふ、ふふふっ」
「ははは!」
堪えきれず、自然と笑いがこぼれた。
その時だった。
ぐぅぅぅ。
まるで合図をしたみたいに、二つの腹の虫が同時に鳴いた。
俺たちはそれぞれ自分の腹に視線を落とし、それから、もう一度お互いの顔を見る。
絢音の白い頬が、みるみるうちに赤く染まっていった。
「……飯、食いに行くか」
「……はい」
絢音は恥ずかしそうに俯き、小さく頷いた。
⭐︎⭐︎第10話につづく⭐︎⭐︎




