第4話 四人目・結城愛
「それで、ジャムは美味しかったんですか?」
「ああ……」
翌日の昼休み。
俺は図書室の椅子に座り、栞の前で深く項垂れていた。
「でも、俺の好みの甘さじゃなかった。俺はもっと、甘いものが好きなのに……」
――あの時。
千歳さんがあーんと開けた俺の口の中に入れたのは、まだ熱の残るいちごジャムだった。
「どう?」
「うん、美味しい。でも、もうちょっと甘くてもいいかな」
「ゆうくんは本当に甘党だよね。でも、彼氏はこのくらいの甘さがいいって言うんだ」
口いっぱいに広がる甘い余韻を味わいながら瞼を開けた俺の目に飛び込んできたのは、少し恥ずかしそうに頬を染める『恋する乙女』の姿だった。
「……彼……氏……?」
千歳さんが誰かと付き合っているなんて、今まで一度も聞いたことがなかった。
「うん。同じ家庭科部の一年生なんだけどね、夏休みに告白されて。今、すっごく楽しいんだ。……だから、ごめんね?」
「い、いや! 俺のほうこそごめん!」
「ううん、いいんだよ。ゆうくんの気持ち、すごく嬉しかったし」
「か、彼氏さんに誤解されたら悪いから、俺はもう行くよ! 千歳さん、本当にごめん!」
そう言い残して、俺は脱兎の如く家庭科室から逃げ出したのだった。
走りながら、なぜか目と鼻の奥から熱いものがとめどなく溢れ出ていた。
「結局、弟扱いの殻を破れなかったばかりか、相手はさらに年下の彼氏ですか。早乙女先輩もなかなかやりますね」
「知らず知らずのうちにNTRムーブをかましちまった俺の自己嫌悪、マジで半端なかったぜ……」
「先輩は寝取り寝取られが嫌いですよねぇ。純真というかなんというか」
「当たり前だろ! やっぱりラノベは純愛に限るんだよ!」
「実は寝取られた経験があるんじゃないんですか?」
「そ、そんな経験無いし! 俺はただ純粋に——」
「はいはい」
シュッシュッ。
栞が手元のリストの『早乙女千歳』の上に、一切の躊躇なく赤いバツ印を書き込む。
「……栞。お前、やっぱりちょっと嬉しそうじゃないか?」
「気のせいです。私はいつでも先輩の味方ですよ?」
栞は眼鏡の奥で目を細め、ふふっと楽しげに笑う。
「さぁ、次に行きましょう! 残り九十七人! 先輩の運命の相手探しの旅は、まだまだ始まったばかりですよ! また今日の放課後も告白しに行くんですよね?」
「いや、今日はもう……大人しく帰るよ……」
栞が驚いたように目を丸くして俺の顔をまじまじと覗き込んできたが、今の俺にはそれに反応して言い返す気力がもう残っていなかった。
◇
栞に宣言した通り、俺は今日はもう誰にも告白せず、大人しく帰路についていた。
三連続の失敗で凄まじい精神的ダメージを喰らい、「俺のライフはもうゼロよ」と心が叫んでいる気がした。
とぼとぼと重い足取りで歩く。
「はぁ……今日は帰ってラノベ読んで寝よ……」
そんな独り言をこぼし、桜ヶ丘学園の中等部の近くを通りがかった時だった。
「あっ!? 悠真お兄ちゃんだ!」
背後から、弾むような明るい声が響いた。
振り返ると、中等部の制服である黄色味がかったリボンを揺らしながら、一人の小柄な少女がタタタッと駆け寄ってくるのが見えた。
「お、愛じゃないか。今帰りか?」
「うん! 今日は部活が無くて早く終わったんだー。悠真お兄ちゃんも今帰り? 一緒に帰ろ!」
この子は結城愛。
俺の隣に住む三姉妹の三女で、現在中学二年生。小さい頃から凛と一緒に面倒を見たり遊んだりしてきた、生粋の幼馴染だ。
愛は俺の隣に並ぶと、ふと不思議そうに小首を傾げた。
「なんだか、すごく疲れてるみたいだけど……あれ? 悠真お兄ちゃん、ちょっと左の頬っぺた赤くなってない?」
背伸びした愛の顔がスッと近づいてくる。姉の凛とは違う、素直で無防備な距離感に少しだけドキッとする。
「い、いや、これはちょっと名誉の負傷というか……」
「ふーん? もしかして、凛お姉ちゃんと喧嘩でもしたの?」
「な、なんでそう思うんだ?」
「だって、お姉ちゃんここ最近変なんだもん。塞ぎ込んでたと思ったら、今度はすっごく機嫌が悪くて。ご飯の時もずっと不機嫌だし」
「えっ、そうなのか?」
(俺を殴ったことと関係があるのか……?)
凛とはあれから顔も合わせていない。クラスも違うし、向こうも登下校の時間も変えているようで、俺と会うことを避けているようだった。前は毎日一緒に登校していたのに。
避けているのは俺も同じだが……。
ずん。と、心に重石が乗る。
いや、今は凛のことはいい。
凛のことを考えると心が重くなる。
ふと、俺は目の前で無邪気に笑う愛を、まじまじと見つめた。
幼馴染リストにも、しっかり名前を載せている愛。
今日はもうやめておくと栞に言った手前、少しだけ躊躇した。
だが、俺の長年培ってきたラノベ脳が激しく囁いているのだ。
『傷心の主人公の前に現れる、素直で健気な妹キャラ。これはフラグではないか?』と。
しかし、愛はまだ中学二年生。やはり倫理的にまずいのではないか。
それでも、「お兄ちゃん」と呼んで慕ってくれる彼女のことが、今はたまらなく愛おしく思えた。
「ねえ、悠真お兄ちゃん? どうしたの、じっと見つめたりして。私の顔に何か付いてる?」
愛が上目遣いで俺を見上げてくる。
夕日を背に受けて、少しだけ大人びて見えるその表情に、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
……いくしかない。
俺は、今という好機を無駄にはしない!
「愛……あのさ」
「なに、お兄ちゃん?」
秋の風が吹き抜け、愛の肩口の髪をふわりと揺らす。
「俺と、付き合っ……!」
「あ、ちょっと待って!」
俺が言葉を紡ごうとした瞬間、愛はカバンをごそごそと漁り、何かを取り出した。
それは、可愛らしいウサギのキャラクターがプリントされた絆創膏だった。
「やっぱり左の頬っぺた、赤く腫れてる。はい、これ貼ってあげる!」
背伸びをした愛の小さな手が、俺の頬にそっと絆創膏を貼る。もう治りかけの腫れが、わずかに疼いた。
そして、彼女は太陽のように眩しい、純度一〇〇パーセントの笑顔を俺に向けた。
「えへへ。痛いの痛いの、飛んでいけー……なーんて。悠真お兄ちゃん、私が怪我したらよくそう言ってくれたよね。そのお返しだよっ。それに悠真お兄ちゃんは、私の自慢のお兄ちゃんだから!」
——グハッ……!!
俺の胸に、目に見えない無数の矢が深く突き刺さった。
ま、眩しすぎる……!
なんだ、この穢れを知らない純真無垢な瞳は。こんな子からの絶対的な信頼と親愛を前にして、俺は邪な思いを告白しようとしていたのか?
人間として、そしてラノベの純愛を尊ぶ者として、この純真さを俺の身勝手で汚すことだけは絶対に許されない……!
「悠真お兄ちゃん。さっき、何か言おうとしなかった? ……付き合う、とかなんとか」
小首を傾げる愛。その無防備な瞳に見つめられ、俺は慌てて言い繕った。
「い、いや! ……あー、駅前に最近できたクレープ屋が気になってたんだ! 俺が奢るから、一緒に付き合ってくれないか?」
「ほんとに!? やったー! 私、悠真お兄ちゃんのことだーい好きっ!」
無邪気に両手を挙げて飛び跳ねる愛を見て、俺は心底ほっとした。
愛からの『好き』は、こういうのでいいんだ。
⭐︎⭐︎第5話に続く⭐︎⭐︎




