第3話 三人目・早乙女千歳
「それで、完膚なきまでに叩きのめされて振られたわけですか」
次の日の昼休み。
俺は図書室の席に座り、栞の前で深く項垂れていた。
「振られてはいない……ただ、純粋な勝負に負けただけだ」
綾香との五十メートル走での大一番。
スタートの飛び出しは完璧だった、と思う。
だけど、あっという間に追いつかれ、抜き去られ、俺はただ彼女の背中を追いかけることしかできなかった。
ポニーテールが風に揺れ、飛び散る汗が西日にキラキラと輝く。そんな青春の眩しさとともに、彼女の背中はどんどん小さくなっていった。
悠々とゴールし終わった後、綾香は息一つ切らさずに俺に近付いてきた。
「悠真、ありがとう! 全力出せたおかげでスッキリしたよ!」
清々しい笑顔でそう言い残し、「じゃあ部活あるから」と爽やかに走り去っていったのだった。俺が告白したことなど、綺麗さっぱり忘れたかのように。
「……鈴木先輩って、この夏インターハイにも出場したんですよね? 女子とはいえそんな現役トップの選手に勝つつもりだったんですか?」
「幼稚園の頃は俺の方が速くて、あいつは万年二位だったのに……」
俺はさらに深く項垂れた。
「あと先輩。もう一つ気になることがあるのですが」
「なんだよ」
顔をあげる。
「なんで左頬、そんなに見事に赤く腫れてるんです?」
「ああ、これか……。なぜだか全然わからないんだが、あの後、グラウンドを出たところで凛と鉢合わせてな。無言でいきなりひっぱたかれたんだよ……」
「心当たりはないんですか?」
「全く」
振ったのが俺ならともかく、俺は振られた側なんだぞ。
「……振られただけでなく、完全に嫌われたようですね。顔も見たくないくらいに」
やっぱり嫌われたのか。
そういえば女性は好きでも無い男に告白されると気持ち悪く感じると聞いたことがある。
ただでさえフラれて傷心なのに、幼馴染に嫌われるなんて精神的ダメージ三倍だ。
俺がこの世の終わりのような暗い顔をしていると、栞は手元に置かれたリストの『鈴木綾香』の名前の上に、赤いペンで勢いよくバツ印を書き込んだ。
シュッシュッ!
気のせいだろうか。そのペンを走らせる手つきと音が、やけにリズミカルに弾んでいるように聞こえる。
「まぁまぁ、そんなに落ち込まないでください! 先輩の魅力が分からないなんて、結城先輩も鈴木先輩も見る目がないだけですよ。ほら、リストにはまだあと九十八人も残ってるじゃないですか!」
「栞……お前ってやつは、本当にいい後輩だな……」
「えへへ。私、先輩の『唯一の味方』ですから。……ところで、今日はどうするんですか? 流石に心も折れたことですし、もうやめておきますか?」
「いや……今日も俺は行く!」
◇
放課後の家庭科室。
廊下にまで、ふわりと甘酸っぱい香りが漂っていた。
ガラリと、家庭科室の扉を開ける。
「やっぱりここだったんだね、千歳さん」
制服の上からフリルのついたエプロンを掛け、髪を緩いお下げに結んだ少女がコンロの前に立ち、木べらで小鍋をゆっくりとかき混ぜていた。
彼女は小学校低学年の頃からの付き合いになる、一つ年上で三年の早乙女千歳。家庭科部の元部長であり、部活のない日でもこうしていつも家庭科室で何かを作っている。
「あっ、ゆうくん。どうしたの?」
「うん、千歳さんにちょっと用があってさ。……それにしてもいい匂い。すごく甘酸っぱい香りが漂ってるけど」
「ふふっ。何を作ってると思う? 当ててみて」
「これは……季節外れかもしれないけど、いちごジャム!」
「大正解! 冷凍ものを使ってるんだけどね」
「すごくいい匂いだよ。美味しいんだろうなぁ」
「ふふ。……って、ゆうくん、その顔どうしたの?」
千歳さんが俺の頬に気付いて心配そうに尋ねてくれた。
「あ、ああ。実はボーッとしてて電柱にぶつかっちゃってさ」
「よそ見してたんでしょー。女の子に見惚れてたんじゃないの?」
「そ、そんなことしてないよっ。それよりいちごジャムといえばさ。千歳さん、覚えてる? 昔、一緒に裏山に行って、野いちごをいっぱい採ってきてジャムにしたこと」
「覚えてるよー。二人で夢中になって採ったよね。あれは私が小学校三年生で、ゆうくんが二年生の時かな」
「そうそう。ちょっと渋くて酸っぱかったから、誤魔化そうとして砂糖をいっぱい入れたんだよな」
「うんうん。おかげですっごく甘いジャムになっちゃったよね」
千歳さんが、当時の味を思い出したようにクスクスと笑う。
「甘すぎたけど……でも、美味しかった」
「ゆうくん、パンにたっぷり塗って『美味しい、美味しい』ってすごく嬉しそうに食べてくれたよね。私、あれが本当に嬉しかったなぁ」
千歳さんが、鍋から目を離して優しく微笑んだ。
窓から差し込む西日がレースのカーテンで柔らかく変わり、彼女をふわりと包み込む。
その笑顔が、ひだまりのように輝いて見えた。
ここだ……! 行くしかない。
甘酸っぱい香りと、優しく微笑む彼女の姿。俺は今、間違いなく目の前の千歳さんに惚れている。
「千歳さん! 俺、昔から千歳さんが作ってくれるご飯が大好きだった! だから、これからもずっと俺に食べさせてほしい! ……いや、そうじゃなくて、その。俺は、千歳さんのことが好きだ! 俺と付き合ってくれ!」
俺はビシッと直立不動になり、勢いよく頭を下げた。
ことことと鍋の煮える音だけが響き、家庭科室に静寂が降りる。
恐る恐る顔を上げると、千歳さんは目を丸くして、それから——クスッと、愛おしそうに笑った。
俺を見つめるその瞳は、本当に優しかった。
「そっかぁ。ゆうくんも、彼女が欲しいお年頃になっちゃったか」
「じょ、冗談で言ってるんじゃない! 俺は本気で——」
「私が料理を好きになったのはね。あの時、ゆうくんが『美味しい』って言ってくれた顔が忘れられなかったからなんだよ」
千歳さんが小鍋の火を止め、木べらを置いて近づいてきた。
それから、俺の目の前までスッと顔を寄せてくる。
間近で見る小さな顔。毛穴なんて一つも見当たらない、透き通るような綺麗な肌。
「ゆうくん、お口を開けて? はい、あーん」
俺は、目を閉じ、言われるがままにゆっくりと口を開けた。
⭐︎⭐︎第4話に続く⭐︎⭐︎




