第23話 転校生・新条麗奈③
「ここ」
そう言って、悠真くんが指をさした。
中庭の一角。校舎と校舎のあいだに挟まれるようにして、小さなベンチが置かれている。頭上には大きな木が枝を広げていて、秋の日差しをやわらかく遮っていた。
ふわりと風が吹く。
肩にかかる髪が、そっと揺れた。
「へぇ……静かなところね」
「うん。ここ、人が少なくて穴場なんだ。本読むのにちょうどいい」
「ふぅん。そういえば、朝もずっと本読んでたよね。本、好きなんだ?」
「ああ。ラノベだけど。昨日も遅くまで読んでたら寝不足でさ。でも、キリのいいところまで読みたくて」
「ちょっと分かる」
私は思わず、ふふっと笑った。
ベンチに腰を下ろそうとすると、悠真くんが先に手を伸ばし、座面に落ちていた枯葉をさっと払ってくれた。
「あ、ありがと」
「ん」
短く返して、彼は何でもないことのように隣へ座る。
……距離、ちょっと近くない?
私はちらりと横を見る。
けれど悠真くんは、こちらの様子を窺うでもなく、私を意識している様子もない。ただ自然に、そこに座っている。
まるで、それが当たり前みたいに。
近い。
でも、不思議と嫌じゃない。
本当に何なの、この人。
私は膝の上にお弁当を置き、さっき買ってもらったクリームパンの袋を開けた。
ふわりと、小麦の香りが立ち上がる。
続いて、カスタードの甘い香りが鼻先をくすぐった。
そっと手で割ると、中には淡い黄色のカスタードと白い生クリームが、色を分けるようにたっぷり詰まっていた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
ぱくりと一口。
バニラの香りが鼻に抜け、ぷるんとしたカスタードと、しっとりした生クリームが口の中で溶け合った。ふんわりしたパン生地が甘さを受け止めて、最後までくどくならない。
「ん〜〜〜!」
美味しい。
これは、本当に美味しい。
二口目を食べようとした時、ふと視線を感じた。
「な、なに?」
少し咎めるような口調になってしまう。
「いや、幸せそうに食べるなと思って」
悠真くんが、へへっと笑う。
その笑顔を見た瞬間、耳のあたりが少し熱くなった。
「もう、見ないでよ」
「ごめんごめん。あ、口に……」
そう言って、彼はポケットティッシュを取り出した。
紙を持つ手が、自然に私の口元へ近づいてくる。
「……っ」
思わず、息が止まった。
けれど悠真くんは、途中で何かを思い出したようにぴたりと動きを止めた。
そして、少し焦った顔で手を引っ込める。
「く、口。クリームついてるよ」
そう言って、ティッシュを差し出してきた。
「あ、ありがとう」
私は受け取りながら、そっと口元を拭う。
びっくりした。
一瞬、本当に口を拭かれるのかと思った。
まだ心臓がどきどきしている。
私はまた、ちらりと彼を見た。
悠真くんは、もう何事もなかったかのようにあんぱんをかぶりついている。
もしかして、彼女がいるのだろうか。
だから、こんなに私に対して自然に振る舞えるの?
彼女の口を、いつもあんなふうに拭いているの?
そう思うと、なぜか胸の奥がもやもやした。
でも、私が彼女だったら。
こんなこと、他の女の子にしていたら絶対に許さない。
むかむかした気持ちをごまかすように、私は残りのクリームパンを勢いよく食べきった。
食べ終わってから、膝の上の重みに気づく。
……あ。
お弁当、まだ丸ごと残ってる。
どうしよう。
さすがに全部は食べられそうにない。
私は、あんぱんを食べ終えた悠真くんへ顔を向けた。
「ね、ねぇ。お願いがあるんだけど」
「うん、いいよ」
「まだ何も頼んでないんだけど!?」
「麗奈なら、変なことは言わないだろ」
今日会ったばかりの私の何を知ってるっていうのよ。
そう思った。
でも、なんだか悪い気はしなかった。
「お弁当……全部は食べられそうにないから、半分食べてくれる?」
「うん。いいけど……本当にいいのか?」
「うん。捨てるのは勿体ないし。その……せっかく作ったから」
最後は、少し小声になってしまった。
何を恥ずかしがっているの、私。
お弁当の蓋を開ける。
二つあるおにぎりのうち一つを取り、卵焼き、ブロッコリー、ミートボールも半分ずつ蓋にのせて、悠真くんへ差し出した。
「あ、お箸……」
「いいよ。手で食べるから」
「ダメだよ。じゃあ、このお箸使う?」
言ってから気づく。
それを渡したら、私はどうやって食べるの?
まさか、あーんするわけにもいかないし。
「うーん。じゃあ、この可愛いピック借りるよ」
悠真くんは、私の分のミートボールに刺さっていたピックを抜き、それを卵焼きに刺して、ぱくりと食べた。
「うん、甘くてうまい! これ、麗奈が作ったのか?」
「う、うん。ミートボールは市販のだけど」
「すげぇな! 俺がこの前卵焼き作ったら、真っ黒になっちゃってさ」
「それ、砂糖入れすぎたんじゃない?」
ふふっと笑いが漏れた。
悠真くんも、つられるように笑う。
その顔を見た瞬間。私の中で何かが割れた。
——あ。
これ、やばいかもしれない。
こんなこと、今まで一度もなかったのに。
父の仕事の都合で、私はあちこちを転々としてきた。
どうせまた離れることになる。だから、恋愛は自立してからでいい。そう決めていた。
学校では、いつも作り笑いだった。惨めな学校生活は送りたくないから、笑顔を振りまいて、みんなから好かれるように。
でも、本気になったら、別れがつらくなるから。私は本気にはならない。
どれだけイケメンから告白されても、全部断ってきた。
友達までなら、まだ我慢できる。
でも、それ以上はだめ。
だめ。
だめ。
だめ。
そう思っていたのに。
私に靡かない悠真くんを、ちょっとからかってやろうと思った、ただそれだけなのに。
今、私は本当に笑っていた。
作った笑顔じゃない。
誰かに見せるための笑顔でもない。
ただ、楽しくて笑っていた。学校でこんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
私、もしかして。
悠真くんのこと——。
ピロン♪
スマホの着信音が鳴った。私のじゃない。
悠真くんが画面を確認する。
その表情が、少しだけ慌てたものに変わった。
……もしかして、彼女から?
「悪い、麗奈。食べ終わったら、まず図書室に案内するよ。呼び出しくらっちゃってさ」
「う、うん。分かった」
図書室。
呼び出し。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
誰から?
どうして?
私の頭の中で、いくつもの感情がぐるぐると渦を巻いていた。
⭐︎⭐︎第24話につづく⭐︎⭐︎




