第19話 三十二人目・桐谷乃々花②
「はい、これ台本」
「あ、ああ」
乃々花から手渡された台本は、思ったよりも分厚かった。
表紙には『春風の向こう側』と書かれている。学園祭でやる演目なのだろうか。
「二十ページ。春樹の台詞を読んで。もちろん、ちゃんと心を込めてね」
「う、うん」
俺は言われた通りにページをめくった。
紙の端には、鉛筆で細かい書き込みがいくつもある。
間の取り方。視線の向け方。声の強弱。
ところどころに乃々花の字で、「上を向く」「相手の目を見る」と書かれていた。
さすが演劇部部長。
台本に対する圧がすごい。
えーっと、春樹の台詞は……。
俺は該当箇所を目で追う。
次の瞬間、指先がぴたりと止まった。
『俺は、ずっと君のことが好きだった』
「…………」
告白のシーンじゃねえか!
俺は思わず顔を上げた。
「乃々花さん?」
「何?」
「これは?」
「告白のシーンだけど」
彼女が「それが何か?」とでも言いたげな表情を見せる。
「なぜ俺に読ませる?」
「それは文化祭用じゃなくて私の劇団用の台本だから」
「いや、そうじゃなくて! なんで俺が!?」
「みんなは文化祭の役の練習があるからさ。あと、みんななぜか照れちゃうんだよね。その点、朝倉くんならこういうの慣れてるかなって」
「慣れてない!」
「ほんとに〜? 告白慣れしてるんじゃないの?」
「勘弁してください」
「ふふ。冗談」
乃々花は台本で口元を隠しながら、小さく笑った。
本当に冗談なのだろうか。
「とにかく、ちゃんと読んで。これは大事なシーンなの」
乃々花の声が、ふっと真剣なものに変わった。
さっきまでの悪戯っぽさが消える。
舞台の上に立つ、女優の顔になる。
「春樹はね、ずっと幼馴染の陽菜に気持ちを伝えられなかったの。近すぎて、今の関係が壊れるのが怖くて。だけど、この場面でやっと言うの」
「……幼馴染」
「うん。幼馴染」
その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。
近すぎて、伝えられない。
関係が壊れるのが怖い。
そんなこと、多分俺が一番よく知っている。
「朝倉くん」
乃々花が舞台中央に立つ。
照明はついていないはずなのに、彼女の周りだけ空気が変わったように見えた。
「私が陽菜をやるから。朝倉くんは春樹」
「……分かった」
「じゃあ、春樹が陽菜を呼び止めるところから。あ、朝倉くんは台本を読むだけでいいから」
乃々花は俺に背を向け、数歩歩き出した。
ただそれだけなのに、彼女の背中には感情が宿っていた。
言いたいことを言えずに去ろうとする少女。
呼び止めてほしいのに、振り返る勇気のない少女。
俺は台本に目を落とす。
春樹の最初の台詞。
『待ってくれ、陽菜』
短い台詞なのに、妙に喉が詰まった。
「……待ってくれ、陽菜」
「声が浅い」
「え」
乃々花は振り返って、ぴしゃりと言った。
「春樹は、ここで逃げたら一生後悔するって分かってる。もっと必死に。相手を引き止めないと、もう二度と届かないと思って」
「……もう二度と?」
「そう。もう二度と。私から、陽菜を引き出して。じゃないと練習にならないから」
俺は小さく息を吸った。
逃げたら一生後悔する。
もう二度と届かない。
自分の頬を、ぱちんと叩く。
その音に、乃々花が少しだけ驚いたような顔をする。
「分かった。もう一回、いいか?」
「……ええ」
後悔なら、もう味わったじゃないか、朝倉悠真。
何も難しいことじゃない。
思い出せばいいだけだ。
そうだ。
あの子を呼び止める。
絶対に。
そのつもりで、声を出す。
「待ってくれ、陽菜」
舞台を見ていた自主練中の部員たちが、ざわりと目配せする気配がした。
乃々花は、少し遅れて、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、彼女の瞳が変わっていることに気づいた。
そこにいたのは、桐谷乃々花ではなかった。
春樹の言葉を待つ、陽菜という少女だった。
「……何?」
小さな声。
けれど、舞台の端まで届く声。
「今さら、何か言うことでもあるの?」
俺は台本にちらりと目を落とした。
『ずっと言えなかった。怖かったんだ。今の関係が壊れるのが。君の隣にいられなくなるのが』
「ずっと、言えなかった」
自分でも驚くほど、震えた声が出た。
けれど、その声は小ホールにまっすぐ響いた。
「怖かったんだ。今の関係が壊れるのが。君の隣にいられなくなるのが」
——俺の隣にいてほしい。
そう願ったことがある。
だけど関係は、壊すつもりがなくても壊れる。
壊してしまうことだってある。
だったら。
思いを言葉に乗せて、ちゃんと届ければいい。
そうだ。
俺は――。
目の前の少女を、まっすぐ見た。
彼女の頬が、ほんの少し赤く染まっている。
それは陽菜の感情なのか。
それとも、乃々花自身のものなのか。
分からない。
台本を持つ手に、少しだけ力が入る。
けれど、もう俺は台本を見ていなかった。
目の前の少女から、目を逸らせなかった。
「でも、黙っていたら、何も変わらない。……いや、もしかすると、変わってしまう。言わなくても、逃げても、結局、壊れてしまうことだってある」
乃々花の瞳が、わずかに揺れた。
「……それで?」
乃々花が、陽菜の声で問いかける。
「それで、春樹は何を言いたいの?」
台本を読まなくたって、次の台詞なんて分かりきっていた。
俺は、春樹として息を吸った。
「俺は」
言葉が、喉を通る。
精一杯の想いを込めて。
「君を愛してる」
小ホールが、静まり返った。
自主練をしていた部員たちの声も、いつの間にか聞こえなくなっている。
けれど、視線だけは集まっていた。
誰かが台本を落としたような音が跳ね返る。
乃々花は動かない。
陽菜としてなのか。
桐谷乃々花としてなのか。
分からない表情で、俺を見つめている。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……遅いよ」
その声は、震えていた。
「ずっと、待ってたのに」
乃々花が一歩、俺に近づく。
「言ってくれるのを、ずっと待ってたのに」
乃々花は――いや、陽菜は続ける。
「春樹くんは、ずるいよ」
彼女の瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
「自分だけ怖がって、自分だけ逃げて。ずっと私に待たせて」
「……陽菜」
「でも」
乃々花は、台本を胸元に抱きしめた。
その表情が、ふっと柔らかくなる。
「それでも、私は嬉しい」
乃々花の瞳から、涙が溢れた。
俺は思わず息を呑む。それほど乃々花の声は、静かだった。
けれど、その一言は舞台の奥まで、客席の隅まで、そして俺の胸の奥まで届いた。
長い沈黙。やがて、どこかで誰かが小さく息を吐いた。
「……はい、ストップ」
乃々花が、ぱん、と軽く手を叩いた。
その瞬間、小ホールの空気が一気に現実へ戻る。
「お、おお……?」
俺の肩がふっと息を抜いた。
乃々花は何事もなかったかのように笑った。
ついさっき涙を流したはずの瞳も、震えた声も、まるで最初から何もなかったかのように、いつもの明るさへ戻っている。
「ふぅ。こんなので大丈夫だった?」
俺は台本に目を落とした。
……ない。
俺が春樹として『いや、もしかすると』と言った台詞から全く違っていた。
それを受けた陽菜の台詞も。
涙さえも。
「ご、ごごご、ごめん! 勝手に台詞変えた!」
俺は慌てて台本を挟むように手を合わせ、頭を下げた。
そんな俺の両手を、乃々花がそっと包み込む。
「朝倉くん」
「は、はい」
「いい演技だった!」
「……え?」
「私にも、すっと陽菜が降りてきた。朝倉くんの台詞、春樹そのものだったよ。特に……」
「特に……?」
「愛してる」
「へ?」
俺は慌てて台本を見る。
そうだ。最初に見ていたじゃないか。
そこには、はっきりとこう書かれていた。
『俺は、ずっと君のことが好きだった』
俺は突然、信じられないくらい顔が熱くなるのを感じた。
「いや、違っ……! それは、その、春樹としてというか、流れでというか!」
「ふふ。私、思わず陽菜としてときめいちゃったもん」
乃々花は、台本を胸に抱いたまま、こちらを見上げた。
「ううん」
その瞳が、少しだけ潤む。
「乃々花としての気持ちも、入ってたかも」
どくん、と。
心臓が大きく跳ねた。
乃々花の表情は、まるで恋する乙女のようだった。
「朝倉くん……」
俺も、乃々花から目が離せなくなっていた。
この熱は、本当に照明のせいだけだろうか。
そして、俺のさっきの言葉は、陽菜へ向けたものだったのか。それとも、目の前にいる乃々花へ向けたものだったのか。
分からない。
だけど、このまま演技だったことにして、何もなかったように舞台を降りたくはなかった。
今度は春樹としてではなく、朝倉悠真として。
目の前にいる桐谷乃々花へ、もう一度伝える。
衆人環視のこの状況だけど、ここで。
そう。
『乃々花、君を愛してる』
そう伝えたい——!
⭐︎⭐︎第20話につづく⭐︎⭐︎




