第18話 三十二人目・桐谷乃々花①
「……で、どうだったんですか。男の幼馴染との熱い友情イベントは。宗旨替えしましたか?」
翌日の昼休み。
図書室のいつもの席に腰を下ろすなり、栞がぐいっと俺の前に顔を近づけた。
「近い近い! な、何もねぇよ!」
「……妹の美玖さんともですか?」
「……ブラコンとシスコンの地獄を見てきた」
「なるほど。詳しく」
「断る!」
「では、とりあえず美玖さんはダメだったようですね」
栞は手元のリストを開くと、赤ペンを握った。
「待て。俺は告白してない。むしろ向こうから『付き合う?』って言われた側だ」
「ほほう。でも付き合ってないんですよね?」
「うぐ。そ、そうだけど」
「なるほどなるほど。そしてシスコンにブラコンの地獄。さては先輩は当て馬にされたということですね?」
こ、コイツ。なんでこんなに鋭いんだ。
「そこで兄妹のイチャラブをたっぷりと見せつけられて……」
「ストーップ! それ以上は規制! 発禁!」
「先輩はお堅いですねぇ。そこがいいところなんですけど。では遠慮なく」
シュッシュッ。
和泉美玖の名前の上に、無慈悲なバツ印が刻まれる。
もはや俺の青春は、栞の赤ペンによって管理されていると言っても過言ではない。
過言であってほしい。
「さぁ、今日は誰ですか?」
栞のメガネが、秋の日差しを受けてキラリと光った。
◇
放課後。
演劇部の活動場所である小ホールは、校舎の端にある古い講堂の一角にあった。
扉の向こうから、よく通る声が響いてくる。
「拙者親方と申すは、御立会の中に御存じのお方もござりましょうが、お江戸を立って二十里上方……」
「もっと腹から!」
「はい!」
……これ、外郎売ってやつだっけ。
ただの発声練習かと思ったら、想像以上に本格的だった。
俺は小ホールの扉の前で、一度深呼吸をする。
今から会おうとしている相手は、桐谷乃々花。
小学校三年の頃、同じクラスになり、学芸会で主役とヒロインを演じた仲だ。
小学校の頃から、乃々花の声はよく通った。演技力も、同じ小学生とは思えないくらい頭二つ抜けていた。
俺もそんな彼女に負けまいと、必死に練習した。
家に帰ってからも、凛を練習相手にして、何度も何度も台詞を繰り返した。
その甲斐あって、劇は大成功だった。
観客席で見ていた凛と絢音が、大きく手を叩いてくれたのを今でも覚えている。
凛の顔はなぜか少し不機嫌そうだったけど。
そんな乃々花は、中学から本格的に演劇を始め、今では桜ヶ丘学園演劇部の部長を務めている。
俺は扉をノックした。
「失礼しまーす」
中に入ると、舞台上にいた数人の部員が一斉にこちらを見た。
その中で、ひときわ姿勢のいい少女が一人、台本を片手にこちらを振り向く。
肩までの黒髪を後ろで一つにまとめ、白いシャツに黒いジャージパンツ。
派手な格好ではない。
それなのに、そこだけ舞台照明が当たっているような存在感があった。
桐谷乃々花だった。
「あれ、朝倉くん?」
「久しぶり、乃々花」
「久しぶり。どうしたの? 演劇部に用?」
「ちょっと、見学してもいいかな?」
「うん、もちろん。観客がいると、演技にも身が入るしね」
乃々花はそこで、少し悪戯っぽく笑った。
「それとも、舞台に上がる? 仮入部ということで」
「はは、今日は遠慮しとくよ」
「ふふ、分かった」
乃々花は軽く頷くと、すぐに舞台へ戻った。
それから部員たちの演技を一人ずつ確認し、短く指示を出していく。
声の出し方。
立ち位置。
視線の向け方。
台詞を言う時の間。
乃々花は言葉だけでなく、自分の動きで見本を示した。
そのたびに、後ろで結んだ黒髪がふわりと揺れる。
動くたびに舞台に散る汗が照明を受け、きらりと光った。
俺は客席の端に座りながら、思わず見入ってしまっていた。
小学校の学芸会で、俺の隣に立っていた女の子。
その彼女は今、舞台の上で、誰よりも真剣な顔をしていた。
「全体練習はここまで! あとは各自、自主練!」
乃々花がパチンと手を叩くと、部員たちは返事をして舞台から散っていく。
小ホールの空気が、少しだけ緩んだ。
「気合い入ってるなぁ」
俺が声をかけると、乃々花は台本を胸元に抱えたまま、こちらを振り返った。
「まあね。来月は学園祭の発表があるし、その後はコンクールも控えてるから」
「頑張ってるんだな」
「見直した?」
「見直すも何も、乃々花は昔からすごい奴だと思ってるよ」
俺がそう言うと、乃々花は一瞬だけ目を丸くした。
それから、ふっと柔らかく笑う。
「……ありがと」
その笑顔に、少しだけ昔の面影が重なった。
学芸会の練習で俺が台詞を間違えた時、乃々花はいつもそんなふうに笑っていた。
責めるでもなく、からかうでもなく。
ただ、「もう一回やろう」と言ってくれるような笑顔。
俺は、少しだけ胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。
「そうだ、朝倉くん」
「ん?」
「今から自主練、付き合ってよ」
そう言うなり、乃々花は俺の手をしっかりと掴んだ。
「え、ちょ、待っ——」
「大丈夫。昔、主役やったんだからいけるいける」
「小三の学芸会を基準にするな!」
「はいはい。つべこべ言わない」
乃々花は楽しそうに笑いながら、俺の手を引いて舞台へ向かう。
握られた手は、思ったよりも強かった。
そして、舞台袖から差し込む光が、俺たちの影を長く伸ばしていた。
⭐︎⭐︎第19話につづく⭐︎⭐︎




