第15話 一人目・結城凛②
「それじゃ、ごゆっくり〜」
凛の部屋。
葵姉は、凛をベッドに寝かせ、俺をその横の床に座らせると、満足げに手をひらひらさせた。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん!」
「幼馴染なんだから、ちゃんと話し合いなさい。いやぁ、青春っていいねぇ」
「茶化さないで! それに、悠真に風邪がうつっちゃう……」
凛は横になったまま布団で口元を隠し、少し気まずそうに視線を逸らした。
「平気平気。悠真はバカだから風邪なんてうつんないよ。ね、悠真?」
葵姉がにっこり笑う。
でも目が笑っていなかった。
バカと言われたことに反論したかったが、今の俺には何も言い返す資格がない気がした。
「う、うん」
「ほら、本人も認めた。じゃ、あとは若い二人で」
「お姉ちゃん!」
凛の抗議を軽やかに受け流し、葵姉はパタンと扉を閉めた。
静寂が落ちる。
ついさっきまで葵姉が嵐みたいにかき回していたせいで、二人きりになった途端の部屋の空気は余計に重く感じた。
凛の部屋に入るのは、いつ以来だろう。
昔は普通に出入りしていた。凛の漫画を勝手に読んで怒られたり、愛が持ってきたぬいぐるみごっこ遊びをしたり、葵姉にからかわれて三人で騒いだり。
だけど今は、ベッドの横に座っているだけで、ひどく場違いな気がした。
俺は喉が渇いていくのを自覚した。
何か話さなきゃ。
何か、言わなきゃ。
「あ、こ、これ。学校の書類。宮野から届けるように頼まれたんだ」
俺は持ってきたプリントの束を差し出した。
「……ありがとう」
凛は布団から片手だけを出し、それを受け取って枕元に置いた。
「風邪、大丈夫か?」
「平気よ。それに、悠真には関係ないでしょ」
その一言で、また沈黙が落ちた。
何分が経ったのだろう。
もしかすると、数秒だったのかもしれない。
時間の感覚が壊れていた。
凛は何も言わない。
俺も何も言えない。
ここで「じゃあ、俺は帰る」と言って立ち上がれば、どれほど楽だろうか。
逃げ出したい。
水が欲しい。
この喉の渇きが逃亡への渇望なのだとしたら、水を欲しがることは卑怯なのだろうか。
でも。
それでも。
俺はまだ、立ち去れなかった。
「……ごめん」
「何が」
「ごめん」
「だから、何がって聞いてるのよ!」
凛が上半身を起こし、怒鳴るように言った。
少し乱れた黒髪。熱のせいか、泣いたせいか、赤い目元。
その顔を見るだけで、胸の奥が痛んだ。
「俺、あの日、凛に嫌われたと思った」
「…………」
「好きでもなんでもないって言われて、家に帰って、泣いた。泣いて、それで……次の日、綾香に告白した」
凛の表情が強張る。
俺は逃げずに続けた。
「幼馴染と付き合って、結婚したいっていう、俺の身勝手な願望で。凛に振られたなら、誰か別の幼馴染を好きになればいいって考えたんだ」
「…………」
「凛のことを考えるのが苦しくて、凛と向き合うのが怖くて、俺は幼馴染って言葉に逃げた」
凛は布団を握りしめたまま、じっと俺を見ている。
「絢音も……絢音にも、ただ逃げただけなの?」
その声は、ひどく小さかった。
でも、俺には一番深く刺さった。
「最初は……そうだったと思う」
俺は正直に答えた。
「絢音に全校放送で呼び出されたのは知ってるだろ? あの時、俺は絢音に責められた。凛に何かしたんだろうって」
「……え」
「俺は、絢音の前で泣いた。凛に振られたって。どうすればよかったんだって。情けないくらい、泣きついた」
凛は何も言わない。
「絢音は優しいから、俺に付き合ってくれた。俺の気晴らしに、って。映画を見て、飯を食べて、買い物をして……一緒にいるうちに、俺は、凛のことを考える苦しさを忘れそうになった」
俺は一度、息を吐いた。
喉の渇きが、少しだけましになった気がした。
「二人で過ごして、絢音の泣き顔を思い出した。絢音の笑顔を思い出した。絢音のそんな顔を今でも見ていたいと思う。俺は……、絢音が好きだ」
「…………!」
凛の瞳が揺れた。布団が雑巾のように絞られる。
俺は両手を握りしめた。
そして、凛のベッドの前で、両膝と両手をカーペットについた。
柔らかいはずの生地が、針の筵のように感じた。
「お願いだ、凛」
「ちょ、ちょっと、何してるのよ」
「絢音と、親友のままでいてやってくれ」
「…………!」
凛の息が止まったように見えた。
「何を……勝手なことを……。二人は付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってない。俺は絢音に振られたんだ」
「そんなの信じられ……」
「俺のことは嫌ってくれていい。もう口も聞いてくれなくていい。全部、俺が悪い。凛を傷つけたのも、絢音を苦しませたのも、俺だ」
頭を下げる。
額がカーペットに触れた。
「絢音は悪くない。絢音は、凛の気持ちを一番に考えて、俺の気持ちには応えられないって……」
「私の気持ちの何が分かるのよっ!」
凛の叫びが部屋に響いた。
「分からなかった!」
俺も叫び返していた。
「俺には分からなかった! 凛が本当はどう思ってたのかも、どれだけ傷ついてたのかも、何も分からなかった! 幼馴染だからって分かってる気にだけなって、凛の気持ちなんてこれっぽっちも分かってなかったんだ!」
声が震える。
「でも、絢音は分かってたんだ。凛がずっと俺を好きだったって。そして、俺は大バカだって。だから……だから頼む。凛」
もう一度、頭を下げる。
「絢音のことだけは、嫌いにならないでやってくれ」
沈黙。そして凛の嗚咽が、俺の喉をゆっくり締めつけた。
「バカァ……」
絞り出すような声だった。
「ほんとに、バカ……」
「……ごめん」
「私だって……私だって、絢音のこと嫌いになんて、なりたくないわよ……」
ひっく、と凛がしゃくり上げる。
「でも、あの時、二人を見たら……夕陽のところで、悠真が絢音をまっすぐに見つめてるところを見たら……頭の中、ぐちゃぐちゃになって……」
「うん」
「私、悠真が好きだった。ずっと好きだった。幼稚園の頃から、ずっと」
初めて、凛の口からその言葉を聞いた。
胸が痛かった。
嬉しいはずの言葉なのに、もう取り返しがつかないところまで来てしまった後だった。
「あの日、悠真が告白してくれて、本当は嬉しかった。でも急すぎて、恥ずかしくて、どうしていいか分からなくて……自分に嘘ついた」
「……うん」
「次の日、悠真が綾香に告白してるのを見て、頭が真っ白になった。どうして、って思った。私に告白したのに、なんで次の日には別の子なのって」
「ごめん」
「絢音と一緒にいるのを見た時も、悲しかった。でもね……それと同じくらい、そんなにショックを受けてない自分にも驚いた」
「え……?」
俺は顔を上げた。
凛は涙で濡れた目を伏せている。
「悠真のこと、もう好きじゃなくなってるのかなって思った。あんなに好きだったはずなのに。ずっと、ずっと好きだったはずなのに」
「凛……」
「だから、悔しかった。悠真のことも、絢音のことも、自分のことも。全部、分からなくなって」
凛は布団を強く握りしめた。その布団が一粒、二粒、濡れる。
「ごめん。私も、ごめんなさい」
「悪いのは俺だ」
「違う。私も悪い。あの日、逃げずに公園でちゃんと言えばよかった。好きって。悠真に、ちゃんと」
ぐす、と凛が鼻をすすった。
「悠真。お願いがあるの」
「うん」
「私と悠真は、もう元のようには話せないと思う」
「ああ」
「だけど、愛は……あの子は悠真のこと本当のお兄ちゃんのように慕ってるから。今まで通り、ちゃんと接してやってくれる?」
「約束する」
俺は即答した。
「手は出しちゃダメだからね」
「愛は、これからもずっと俺の大切な妹みたいな存在だ」
「うん。なら、いい」
凛は小さく息を吐いた。
それから、真っ赤な目で俺を見た。
「悠真」
「うん?」
「今まで……ありがとう」
その笑顔は、また泣きそうで、でも少しだけ晴れていた。
俺は何も言えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
◇
「お邪魔しました」
「うん、気をつけて帰れよー。と言っても隣だけど」
玄関先で、葵姉がいつもの軽い調子で手を振った。
「ありがとう。刺されないように気をつけるよ」
俺は葵姉にもらった、おどろおどろしい人形の形をしたお守りを掲げた。
「うん。まあ、なんだ。青春だねぇ」
「そうかな」
「そうだよ。痛くて、面倒くさくて、後から思い出すと布団の中で叫びたくなるやつ。それが青春」
「最悪じゃん」
「でも、また笑える日が来るよ。多分だけど」
多分かよ、と言い返そうとして、やめた。
葵姉には、全部聞こえていたのだろう。
あれだけ大声を出していれば当然だ。
でも、葵姉は何も聞かなかった。
「うん。ありがとう。それじゃ」
「また来なよ。でも、今度はインターホン前で不審者やる前に押しなよ。全部防犯カメラに写ってたから」
「たった今、布団の中で叫びたい気分」
俺は葵姉に手を振り、結城家の扉を閉めた。
バタン、という音が、一つの終わりを告げた音のように聞こえた。
俺は次の日、風邪で寝込んだ。
⭐︎⭐︎第一幕・完⭐︎⭐︎




