第14話 十二人目・結城葵
押そうとして、また指を引っ込める。
俺、朝倉悠真は、結城家の玄関先に設置された銀色のインターホンの前で、完全に不審者をやっていた。
押すぞ、と決心する。
一秒後には心が折れる。
三十秒後に、もう一度押すぞと決心する。
また一秒後に心が折れる。
そんなことを何度繰り返しているのか、もう分からない。
いっそのこと、メモ書きと一緒にプリントをポストに入れて帰ってしまおうか。
宮野には「インターホンを押したけど誰も出なかった」と言えばいい。うん。それでいい。誰も傷つかない。俺の心も守られる。世界は平和だ。
そうだ、そうしよう。
俺は鞄を開け、ペンとメモ帳を探し始めた。
ガサガサと探り、ようやくメモ帳を取り出す。
その瞬間だった。
メモを握った俺の手の甲が、うっかりインターホンのボタンに触れた。
ピンポーン。
「ひゃあああああああ!?」
押してしまった。
押してしまった押してしまった押してしまった!
やばい。
やばい。
出るな。
誰も出るな。
頼む、結城家の皆さん。今だけ全員、奇跡的に留守であってくれ。
『はーい』
……終わった。
俺の人生は、ここで終了した。
タタタタ、と小走りの足音が玄関の向こうから近づいてくる。
この足音は、凛じゃない。
愛でもない。
ママさんでもない。
もっと軽くて、遠慮がなくて、嵐みたいな足音だ。
ガチャ!
玄関の扉が、勢いよく開いた。
「はーい! お、悠真じゃん! 久しぶりー!」
「あ、葵姉……久しぶり」
そこに立っていたのは、結城家三姉妹の長女、結城葵だった。
明るい茶髪に、ゆるくかかったウェーブ。キャミソールの上にゆるいTシャツ、ショートパンツという、季節感よりも開放感を優先したような格好。底抜けに明るい笑顔は、昔から少しも変わっていない。
桜ヶ丘学園大学の二年生。
もちろん、俺が生まれた頃からの幼馴染である。
そして当然のように、俺のリストにも名前を書いてしまった人だ。
……いや、今はそのことを考えるな。考えたら負けだ。
「葵姉、帰ってたんだ。確か夏休みはずっと海外を回ってるって聞いてたけど」
「もう大学始まっちゃったからねー。泣く泣く帰国よ。あ、そうだ。あとで悠真にもお土産あげる。なんか変な呪いのお守り」
「呪いなのかお守りなのか、どっちなの……」
「持ってると恋愛運が上がるらしいよ。代わりに浮気すると刺されやすくなるんだって。悠真にピッタリでしょ」
「ピッタリってなんだよ!」
「大丈夫大丈夫。悠真なら刺されても平気でしょ?」
「俺を何だと思ってるの?」
葵姉はけらけら笑うと、俺の手元にあるプリントの束へ視線を落とした。
「で、悠真は凛のお見舞い?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「うんうん。がんばるねぇ。いやー、青春だねぇ。いっそのこと押し倒して既成事実を——」
「しない! しないから! そんなんじゃなくてこの書類を届けに来ただけだよ。今日中に渡してほしいって頼まれて」
「ふーん?」
葵姉はにやにやと、からかうように目を細めた。
「まあ、そういうことにしておいてあげよう」
「本当にそういうことなんだけど」
「はいはい。とりあえず入って入って。玄関先で突っ立ってたら、ご近所さんにまた『悠真くん、凛ちゃんの家の前で立たされてた』って噂されるよ」
「またって何!?」
「昔からたまに立たされてたじゃん。凛に怒られて」
「ぐっ……」
余計な記憶力を発揮しないでほしい。
葵姉は笑いながら、俺を中へ招き入れようと扉を大きく開けた。
俺は一歩踏み出しかけて、ふと引っかかった言葉を思い出す。
「……葵姉」
「ん?」
「凛、風邪ひどいの?」
俺が尋ねると、葵姉の笑顔がほんの少しだけ薄くなった。
いつもの軽い調子のまま、けれど少しだけ声を落として、葵姉は言った。
「うーん、熱は大したことないんだけどさ」
そして、玄関の奥へ視線を向ける。
「あの子、ここ何日かずっと元気ないから。今日は一日休めって言って、無理やり休ませたんだよ」
「そう……」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「ほら、そんな顔してないで。上がりな」
葵姉は俺の背中を軽く叩くと、リビングへ案内してくれた。
結城家には、小さい頃から何度も遊びに来ていた。
リビングのソファも、壁に掛かった家族写真も、キッチンから漂う柔らかい匂いも、何もかも見慣れているはずだった。
なのに今日は、妙に遠い風景のように感じた。
俺は、借りてきた猫みたいにそろそろとリビングの端に立つ。
すると葵姉が、くるりと振り返った。
「さてと。悠真」
「へ?」
「いつものは?」
「……いつもの?」
「そう。いつもの」
葵姉はわざとらしく胸に手を当て、大げさにため息をついた。
「あーあ、お姉ちゃん悲しいなー。久しぶりに会えたのに、悠真ってば忘れちゃったんだー」
心なしか、いつもより葵姉の声が大きい。
「ちょ、ちょっと。大声出さないでよ」
「じゃあ、やって」
「いや、でも、それは……」
「やって」
「……」
葵姉の笑顔は明るい。
だが、その目は俺をまっすぐに見ていた。
正直、今はやりたくなかった。
だけど逃げ場はない。
俺は観念して、葵姉の前に立った。
葵姉も楽しげに一歩下がると、両手を後ろで組み、芝居がかった仕草で上目遣いに俺を見る。
……そう。
これが、俺と葵姉の昔からの恒例行事だった。
小さい頃、俺が一度ふざけて言ってしまった。
それを葵姉が面白がり、以来、会うたびにやらされる謎の儀式になっている。
俺は息を吸い込んだ。
「葵姉」
「はい」
「俺の……俺のお嫁さんになってくれ!」
……言った。
言ってしまった。
昔の俺、何でこんなこと言っちゃったんだ。
いや、今の俺も何でこんなこと言っちゃってるんだ。
そして、葵姉はいつもこう返す。
『ダメよ! 私たち、まだ早いわ! せめてあなたがもっと大きくなってから……!』
そう、大げさな演技で。
口元に手を当てて、わざとらしく頬を染めて、最後には俺の頭を撫でて終わる。
そのはずだった。
葵姉は、恥ずかしそうに顔を斜めに伏せた。
口元に手を当てる。
肩を小さく震わせる。
そして、もじもじと体を揺らしながら言った。
「い、いいよ……ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「……は?」
時が止まった。
いいよ?
よろしくお願いします?
え?
何が?
誰が?
俺と葵姉が?
「ちょ、葵姉、台詞違——」
「ななななな、何やってるのよーーーー!!」
背後から、悲鳴みたいな怒鳴り声が飛んできた。
俺は反射的に振り返る。
リビングの入り口に、パジャマ姿の凛が立っていた。
少し乱れた黒髪。
熱のせいか、それとも別の理由か、赤く染まった頬。
大きく見開かれた瞳は、俺と葵姉を交互に見ている。
そして凛は、震える指で俺たちを指さした。
「お、お姉ちゃん!? 悠真!? な、なに結婚しようとしてるのよ、あんたたちはぁぁぁ!」
葵姉は、にやりと笑った。
「お、やっと元気出たじゃん」
「お姉ちゃゃゃゃん!」
結城家のリビングに、凛の絶叫が響き渡った。
⭐︎⭐︎第15話につづく⭐︎⭐︎




