第115話:継承戦終了
宿へ戻った頃には、すでに夜は深くなっていた。
魔界特有の赤黒い空は沈み、代わりに鈍く光る霧が街を覆っている。
窓の外に見える灯りもどこか頼りなく、静けさが逆に不安を煽っていた。
部屋に入ると、誰もすぐには口を開かなかった。
重い沈黙。
それを破ったのは、ユナだった。
「……ねえ」
小さな声だったが、全員の視線が自然と集まる。
「やっぱり、考えなきゃダメだよね」
その言葉に、カナトがゆっくりと頷いた。
「……ああ」
エフィナはベッドの端に腰掛けたまま、俯いている。
自分のことなのに、どこか他人事のような感覚。
だが同時に、胸の奥に引っかかるものが確かにあった。
「エフィナを襲って、力を奪ったやつ……か」
カナトの言葉に、空気がわずかに張り詰める。
ユナが腕を組み、考えるように目を伏せた。
「まず確認だけど……」
そこで一度言葉を区切る。
「魔王候補の中に、その犯人がいる可能性」
視線が自然とエフィナに向く。
エフィナは少しだけ考えてから、ゆっくりと首を横に振った。
「……ない、と思う」
その声は静かだったが、はっきりしていた。
「戦って、分かったの。ダルガンも、シェーヴァも……ヴォルツも、ルシエルも」
一人一人、思い浮かべるように。
「もしあの中にいたなら、きっと……違和感があったと思う」
カナトが続く。
「俺も同意だ。あいつらがやったなら、もっと……分かる形で来るはずだ」
ユナも頷く。
「うん。シェーヴァなんて、やるなら隠さないでやるタイプでしょ」
「……ヴォルツも同じだな」
短く補足するカナト。
エルネストも無言で頷いた。
少しの間を置いて、四人の意見は自然とまとまった。
「……じゃあ」
ユナが息を吐く。
「魔王候補の中にはいない、ってこと……だよね?」
誰も異論を挟まなかった。
それが、今の彼らの結論だった。
――だが。
だからこそ、次の問いが重くのしかかる。
「じゃあ……誰がやったんだよ」
カナトの言葉に、再び沈黙が落ちる。
今度は先ほどよりも、明確な“行き詰まり”の沈黙だった。
エフィナがぽつりと呟く。
「……遠くには、いないと思う」
二人が顔を上げる。
「近くに……いる。たぶん」
その言葉は、確信ではない。
だが、曖昧な感覚ではなかった。
「……どうしてそう思う?」
カナトが静かに問う。
エフィナは少しだけ目を閉じる。
「分からない。でも……」
胸元を押さえる。
「すごく……近い感じがするの」
その表現は感覚的だったが、不思議と否定できない説得力があった。
ユナが唇を噛む。
「近くにいる……でも、候補じゃない」
「……範囲広すぎだろ」
カナトが苦笑混じりに言うが、その顔は冗談を言っているようには見えなかった。
頭の中で、関わってきた人物たちを思い浮かべる。
だが――
決定的な何かが足りない。
「……分かんねえな」
正直な言葉だった。
ユナも同じように肩を落とす。
「手がかり、少なすぎるよ……」
エフィナは何も言わなかった。
ただ、ずっと同じ違和感を抱えたまま、動けずにいる。
――近くにいる。
その感覚だけが、やけに鮮明だった。
その時だった。
コン、コン。
静かなノックの音が、部屋に響いた。
四人が同時に顔を上げる。
こんな時間に訪ねてくる者など、ほとんどいない。
エルネストがゆっくりと立ち上がる。
警戒を解かないまま、扉へと歩み寄る。
「……誰だ?」
短く問いかける。
一瞬の間。
そして、返ってきたのは――
「俺だ」
聞き慣れた、落ち着いた声。
エルネストが一瞬だけ目を細める。
「……ルシエル?」
扉の向こうから、わずかに気配が動く。
「少し、話がある」
その声音は、いつもと変わらない。
だが。
どこか、確実に“何かを知っている”響きを含んでいた。
「入ってもいいか」
確認のようでいて、すでに断られる前提ではない口調。
エルネストが一瞬だけエフィナを見る。小さく頷くのを確認してから、身体をずらした。
「ああ」
ルシエルはゆっくりと部屋に入り、適当な位置に立つ。椅子を使うこともなく、壁にも寄りかからない。
そのまま、静かに口を開いた。
「……少し、気になってな」
誰に向けた言葉でもないようでいて、全員に向けられている。
「エフィナのことだ」
その一言で、部屋の空気がまた引き締まる。
ルシエルはエフィナの方を見た。
「記憶を失う前の、お前についてだ」
エフィナは少しだけ身を強張らせる。
「……あたし?」
「そうだ」
短く肯定し、ルシエルは言葉を続けた。
「結論から言う」
一拍。
「そこらの魔族に遅れを取ることは、まず考えにくい」
断言だった。
カナトとユナが顔を見合わせる。
「……そうなのか?」
カナトが低く呟く。
ルシエルは続ける。
「力だけじゃない。判断も、勘も……あらゆる面で、だ」
淡々とした口調だが、その評価は明らかに高い。
「少なくとも、不意を突かれた程度でどうにかされる存在じゃない」
その言葉に、エフィナは何も返せなかった。
自分のことなのに、実感が伴わない。
だが――
それでも。
「……じゃあ」
ユナがゆっくりと言葉を繋ぐ。
「逆に言えば、そのエフィナがやられたってことは……」
自然と、答えは一つに絞られていく。
カナトが口にする。
「心を許してた相手、か」
その言葉に、部屋の空気が静かに変わる。
疑いではない。
だが、確実に踏み込んだ領域だった。
エフィナが小さく息を呑む。
ルシエルは否定も肯定もしない。
ただ、少しだけ視線を落としてから言った。
「……可能性としては高い」
静かな同意だった。
「だが」
そこで言葉を区切る。
「一つ、補足しておく」
視線が再びエフィナへ向けられる。
「お前は……今と、そこまで変わらない」
「……え?」
思わずエフィナが顔を上げる。
ルシエルは少しだけ考えるように間を置いてから続けた。
「お人好しだ」
あまりにもあっさりとした言い方に、ユナが小さく吹き出しそうになる。
だが、すぐに真顔に戻る。
「……でも、それだけじゃない」
ルシエルの声は変わらず平坦だ。
「威厳もあった。力もあった」
「ただ――」
ほんのわずか、言葉を選ぶような間。
「……親しみやすかった」
その一言は、妙に現実味があった。
遠い存在ではない。
かといって軽く扱える存在でもない。
「距離感を間違えると、近くにいられる」
そんな人物像が、ぼんやりと浮かび上がる。
カナトが腕を組む。
「つまり……」
「近づけるやつ自体は、そこそこいたってことか」
ルシエルは小さく頷いた。
「少なくとも、“特別な一人だけ”という印象はない」
その言葉が、決定的だった。
ユナが顔をしかめる。
「……それじゃ、絞れないじゃん」
その通りだった。
エフィナ自身が誰かを特別視していたわけではない。
少なくとも、外から見た限りでは。
そして当の本人は――
「……覚えて、ない」
エフィナがぽつりと呟く。
その声には、悔しさが滲んでいた。
誰とどんな関係だったのか。
誰を信じていたのか。
何もかもが、空白のまま。
カナトがゆっくりと息を吐く。
「……結局、振り出しか」
誰も否定しなかった。
魔王候補ではない。
近くにいた可能性が高い。
心を許していた相手の可能性が高い。
そこまでは見えた。
だがそこから先に進めない。
決定的な“誰か”に辿り着かない。
沈黙が落ちる。
今度は、重さではなく。
“停滞”の沈黙だった。
ルシエルもそれ以上は何も言わない。
ただ静かに、状況を見ている。
エフィナは俯いたまま、動かない。
胸の奥にある“近い”という感覚だけが、何度も繰り返される。
だが、それが誰なのかは――
分からない。
部屋の空気が、ゆっくりと冷えていく。
答えに辿り着けないまま、時間だけが過ぎていく。
まるで、意図的に隠されているかのように。
誰も、次の一手を見つけられずにいた。




