第116話:辿り着く答え
部屋の空気は、依然として停滞していた。
答えに辿り着けないまま、思考だけが空回りしている。
その流れを断ち切るように、エルネストが口を開いた。
「……一度、原点に戻ろう」
低く、落ち着いた声。
「エフィナが記憶を失った“その時”だ」
カナトが顔を上げる。
「……人間界に来た直後、ってことか」
ユナも頷く。
「でも、その頃のことって……」
そこで言葉が止まる。
三人は、ほとんど何も知らない。
エフィナと出会ったのは、それからずっと後のことだからだ。
エルネストがエフィナを見る。
「覚えていることはあるか」
静かな問い。
エフィナは少しだけ戸惑いながらも、目を閉じた。
遠く、ぼやけた記憶。
断片的で、掴みきれないもの。
「……はっきりとは、覚えてない」
正直な言葉だった。
「でも……」
わずかに、眉が寄る。
「体が、すごく痛かったのは覚えてる」
その言葉に、全員が意識を集中させる。
エフィナはゆっくりと、自分の背中に手を回した。
「……ここ」
触れる。
今は何もない場所。
「大きな傷があった、気がする」
カナトとユナが顔を見合わせる。
「傷……?」
「そんなの、聞いたことないよ……」
それも当然だった。
出会った時には、そんな痕跡はもう残っていなかったのだから。
エフィナ自身も、今初めてそれを“思い出した”。
エルネストが静かに問いを重ねる。
「他には?」
エフィナはしばらく考え込む。
だが――
やがて、小さく首を振った。
「……分からない。でも……」
言葉を探すように、ゆっくりと続ける。
「いっぱい戦った、感じはしない」
その一言が、場の空気を変えた。
カナトが眉をひそめる。
「……どういうことだ?」
ユナも戸惑う。
「大きな傷があるのに……?」
エフィナは自分でもうまく説明できないように言う。
「傷はあった。でも……」
視線を落とす。
「戦ってできた、って感じじゃなかった」
曖昧な感覚。
だが、その違和感は確かだった。
エルネストが低く呟く。
「……妙だな」
「致命的な一撃は受けている。だが、それまでの過程が見えない」
カナトが腕を組む。
「普通、ああなるまでに何回もやり合うはずだよな」
「うん……」
ユナも頷く。
「逃げたり、防いだり……そういう傷があってもいいのに」
だが、それがない。
あるのは――
“決定的な一撃”だけ。
エルネストの視線が、ゆっくりとルシエルへ向く。
「一つ、聞く」
その声音には、わずかな緊張があった。
「記憶を失う前のエフィナは……」
一拍、間を置く。
「そこらの魔族に、背後を取られるような人物だったか?」
核心に触れる問い。
ルシエルはすぐには答えなかった。
ほんのわずかに視線を落とし、考える。
そして――
「……考えにくい」
静かに、だがはっきりと断言する。
「魔界は、そういう場所じゃない」
顔を上げる。
その瞳は揺らがない。
「争いは日常だ。力が全て」
「どれだけ親しみやすくても、油断しきることはない」
その言葉は、魔界の本質そのものだった。
「特に、お前ほどの立場ならなおさらだ」
エフィナは何も言えない。
「完全に無防備になることは……あり得ない」
ルシエルの結論は明確だった。
部屋に、重い沈黙が落ちる。
誰もすぐには口を開けない。
だが確実に、一つの違和感が形になっていた。
カナトがぽつりと呟く。
「……じゃあ、なんでだ」
低く、押し殺した声。
「なんでエフィナは、背中から一撃でやられてる?」
誰も答えない。
だが、その問いは確実に核心へ近づいている。
ユナが小さく言う。
「……戦ってない、ってこと?」
その言葉が、静かに落ちる。
波紋のように、空気が揺れる。
戦っていない。
だから、防げなかった。
だから、傷が残っていない。
だから――
背後から、一撃で終わった。
その意味に、まだ誰も辿り着いていない。
だが、確実に近づいていた。
カナトが、ゆっくりと口を開き全員が思っているだろう事を口にした。
「戦ってないから、防げなかった」
「防げなかったから……あの傷が残った」
視線が、自然とエフィナの背へ向く。
「……最初から、戦う気がなかったんだ」
エフィナの指先が、わずかに震える。
「そんなの……」
ユナが言いかけて、止まる。
否定したい。
だが、できない。
エルネストが低く続ける。
「警戒もしていなかった、ということになるな」
ルシエルも小さく頷く。
「……完全に“通した”」
その言葉が、重く沈む。
カナトが顔を上げる。
「通した……?」
ルシエルは淡々と答える。
「敵として見ていない相手を、だ」
――空気が止まる。
エフィナの呼吸が、わずかに乱れる。
「……そんな人」
かすれた声。
「いる、の……?」
カナトがゆっくりと言う。
「条件は揃ってる」
指を折るように。
一つずつ、確かめるように。
「戦ってない」
「警戒してない」
「背後を取られてる」
そして。
「……近くにいた」
ユナが顔を上げる。
「近くって……」
カナトは首を横に振る。
「場所の話じゃない」
「もっと……」
一瞬、言葉を探す。
「“疑う必要がないくらい近い”って意味だ」
その瞬間。
部屋の空気が、静かに変わる。
ルシエルが続ける。
「信頼していた相手、だな」
エルネストが腕を組む。
「長期間の関係……」
「上下関係に近いもの」
その言葉が、決定的だった。
誰も、すぐには口を開かない。
だが。
頭の中で、同じ“誰か”に辿り着いている。
ユナの表情が強張る。
「……そんな人、いた?」
問いかけの形をしているが、もう、答えは出ている。
カナトが、ゆっくりと顔を上げる。
「……いた、よな」
確認するような声。
エルネストは何も言わない。
ただ、わずかに目を細める。
ルシエルも沈黙したまま。
否定はしない。
それが、答えだった。
エフィナの呼吸が浅くなる。
胸の奥で、何かが強く脈打つ。
――“近い”
あの感覚が、はっきりと形を持つ。
「……やだ」
小さく、漏れる。
「そんな……はず……」
視線が揺れる。
思い出せないはずの“誰か”が、
確かにそこにいる。
カナトが、低く呟く。
「俺たち、ずっと“候補の中じゃない”って話してた」
ユナが小さく頷く。
「うん……」
「でも」
カナトの声が、わずかに鋭くなる。
「“外にいるやつ”は、ちゃんと見てなかった」
その言葉に、空気が凍る。
エルネストが静かに言う。
「魔界の事情を知り」
「エフィナの過去にも関わり」
「今も我々の近くにいる人物」
ルシエルが目を閉じる。
「……そして」
一拍。
「エフィナが、疑わない相手」
沈黙。
逃げ場のない結論。
ユナが震える声で言う。
「……まさか」
カナトは何も言わない。
ただ、ゆっくりと一点を見つめる。
そこに“いるはずの人物”を。
エフィナの手が、強く握られる。
「……あの人が?」
誰も否定しない。
できない。
エルネストが、低く呟く。
「……そう考えれば、全て辻褄が合う」
ルシエルも静かに目を開く。
「……ああ」
短い肯定。
それで十分だった。
エフィナは、かすれる声で繰り返す。
「……あの人……が」
胸の奥の違和感が、確信へと変わっていく。
気づいてしまった。
だが、まだ――
その名前を、口にすることだけはできなかった。




