第107話:焦燥
拠点へ戻る道中、エフィナはほとんど口を開かなかった。
そして部屋に入り、扉が閉まった瞬間――
「……みんな、聞いて」
静かに、しかし迷いのない声で切り出した。
カナト、ユナ、エルネストの視線が一斉に集まる。
エフィナは一度だけ息を整え、それから先ほどの出来事をかいつまんで説明した。
ルシエルとの対面。
圧倒的な力の差。
そして――提案された“言動での戦闘継承戦”。
話し終えたあと、短い沈黙が落ちる。
「……で」
エフィナが三人を見回す。
「どう思う?」
その問いに、最初に口を開いたのはカナトだった。
「俺は――」
少しだけ間を置く。
言葉を選ぶように。
「エフィナの選択、尊重するよ」
真っ直ぐな視線。
迷いはない。
「ちゃんと考えて決めたんだろ?」
エフィナは一瞬だけ目を瞬かせ――
小さく、頷いた。
「……うん」
そのやり取りを見ていたユナが、勢いよく口を開く。
「いやいやいや、ちょっと待って!?」
声が一気に大きくなる。
「どう考えても罠でしょそれ!」
腕をぶんぶん振りながら、エフィナに詰め寄る。
「わざわざ自分の有利捨てるなんて普通ありえないじゃない!絶対裏があるって!」
そのままさらに一歩近づく。
「エフィ、冷静に考えた!?あいつ何考えてるか分かんないのよ!?」
まくしたてるような言葉。
だが――
「ユナ」
低く、落ち着いた声がそれを止めた。
エルネストだ。
ユナがぴたりと動きを止める。
「……だがな」
エルネストは腕を組み、ゆっくりと続ける。
「我々は、ルシエルの力を直接見てはいない」
視線がエフィナへと向く。
「だが、エフィナは違う」
一拍。
「その“差”を、体で理解している」
ユナが言い返そうと口を開きかけ――止まる。
「その上で、その選択をしたのなら」
エルネストの声は、静かで揺るがない。
「それが、現時点で最も正しい選択なのだろう」
断言ではない。
だが、信頼に満ちた言葉だった。
ユナはしばらく何も言わず、エフィナを見つめる。
やがて――
「……はあ」
大きく息を吐いた。
「……分かったわよ」
不満は残っている。
だが、それ以上責めることはしない。
一歩下がり、腕を組む。
「ただし、絶対に気を抜かないで」
短く、それだけ言った。
エフィナは小さく頷く。
「……うん」
空気が、少しだけ落ち着く。
そこでカナトが手を叩いた。
「よし」
切り替えるように。
「じゃあさ、どう戦うか決めよう」
前向きな提案。
「言葉の戦いなんだろ?だったら準備できることも――」
「ダメ」
エフィナの声が、それを遮った。
はっきりとした拒絶。
カナトが驚いたように目を見開く。
「え?」
ユナも眉をひそめる。
「なんでよ?」
エフィナはゆっくりと首を横に振った。
「多分……」
少しだけ視線を落とし――
「もう、戦いは始まってる」
その言葉に、三人が息を呑む。
「いや、でも正式には三日後だろ?」
カナトが戸惑いながら言う。
エフィナは小さく頷く。
「うん。記録としては、まだ」
「今ここで相談しても評価は変わらないと思う」
そこまでは、全員が理解している。
だが――
エフィナは顔を上げる。
「でもね」
その瞳は、はっきりとしていた。
「ルシエルは“助言を禁止する”って言った」
静かに、言葉を重ねる。
「それって……たぶん」
少しだけ間を置く。
「“今この瞬間も含まれてる”と思うの」
「……は?」
カナトが思わず声を漏らす。
ユナも目を見開く。
「いや、さすがにそれは……」
エフィナは首を横に振る。
「分からない。でも」
視線が、遠くを見るように揺れる。
「ルシエルって、そういうことすると思う」
あの無気力な態度。
だが、その奥にある底知れなさ。
「ルールの“外”から始めるタイプ」
ぽつりと呟く。
エルネストが、ゆっくりと頷いた。
「……あり得るな」
低い声。
「奴は、枠に縛られるような者ではない」
その言葉に、場の空気が再び引き締まる。
エフィナは三人を見渡した。
「だから……」
小さく、しかし確かな声で。
「この戦いは、私一人でやる」
誰の助けも借りず。
誰の言葉にも頼らず。
「最初から最後まで」
覚悟の色が、その瞳に宿っていた。
カナトは何か言いかけて――やめる。
代わりに、強く頷いた。
「……分かった」
ユナも、しばらく黙ってから。
「……ほんと、無茶するんだから」
小さくぼやきつつ、視線を逸らす。
だが、それ以上は何も言わない。
エルネストは静かに目を閉じた。
「……覚悟は、できているようだな」
エフィナは、はっきりと頷いた。
三日後。
その戦いは、言葉だけで行われる。
だが誰もが理解していた。
それは決して、生易しい戦いではないと。
夜。
自室には、かすかな灯りだけが揺れていた。
窓の外は静かで、音はほとんどない。
その静寂の中で――
エフィナは、一人、椅子に座っていた。
机に肘をつき、両手で額を支える。
「……」
何度も、何度も考えている。
三日後の戦い。
ルシエルとの、“言葉だけの戦闘継承戦”。
(どうやって……)
頭の中で、問いを繰り返す。
(どうやって、勝つの……)
答えは、出ない。
ルシエルの言葉。
あの圧。
あの余裕。
思い出すだけで、胸の奥がざわつく。
「……っ」
小さく息を吸う。
落ち着こうとする。
でも――
思考は、止まらない。
(魔界の未来……魔王としての資質……)
テーマは分かっている。
でも、それをどう語ればいいのか。
何を軸にすればいいのか。
(あたしは……何を、持ってるの……?)
問いが、自分に向く。
その瞬間。
ふと、気づく。
「……あれ」
ぽつり、と漏れる声。
(あたし……)
指先が、わずかに震える。
(“独り”で戦うのって……)
記憶を辿る。
これまでの道のり。
戦い。
困難。
選択。
――いつも。
誰かがいた。
カナトがいた。
ユナがいた。
村の人たちがいた。
冒険者たちがいた。
誰かが隣にいて。
誰かが声をかけてくれて。
誰かが、背中を押してくれた。
「……」
胸が、きゅっと締め付けられる。
(……あれ……?)
今度は、違う。
今回の戦いは。
助言は禁止。
頼ることも、できない。
最初から最後まで――
「……あたし、一人……?」
その言葉が、はっきりと形になった瞬間。
何かが、崩れた。
「……っ」
呼吸が、浅くなる。
胸が苦しい。
(あたし……本当に……)
不安が、波のように押し寄せる。
(立ち向かえるの……?)
問いが、鋭く刺さる。
(勝つための道筋なんて……考えられるの……?)
分からない。
何も見えない。
(……勝てなくても……)
思考が、さらに深く沈む。
(最後まで……折れずに……いられるの……?)
その想像すら、できない。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
考えがまとまらない。
同じ問いが、何度も何度も巡る。
「……やだ……」
小さな声が、零れた。
無意識だった。
「……やだよ……」
言葉にした途端、感情が溢れ出す。
怖い。
不安。
孤独。
全部が一気に押し寄せる。
「……っ」
肩が、小さく震える。
(誰か……)
ふと、思ってしまう。
(誰か、いて……)
カナトの顔が浮かぶ。
ユナの声が聞こえる気がする。
あの、安心する空気。
(助けて……)
胸の奥から、強い衝動が湧き上がる。
今すぐ扉を開けて。
誰かのところに行って。
「大丈夫だよ」って言ってほしい。
背中を撫でてほしい。
寄りかかりたい。
「……っ、や……」
それができないことも、分かっている。
自分で決めた。
一人で戦うって。
「……うぅ……」
堪えようとする。
でも――無理だった。
ぽろり、と。
涙が、頬を伝う。
一滴。
二滴。
止まらない。
「……やだよ……怖い……」
声が、震える。
誰にも聞かれない部屋の中で。
エフィナは、小さく身体を丸めた。
「……一人、やだ……」
絞り出すような声。
膝を抱え、顔を埋める。
涙が、ぽたぽたと落ちる。
誰もいない。
答えてくれる人もいない。
その現実だけが、静かにそこにあった。
――それでも。
時間は、止まらない。
三日後は、確実にやってくる。
その事実だけが、残酷なほどはっきりと、エフィナの胸に刻まれていた。
「……っ、は……っ、は……」
息がうまく吸えない。
胸が締め付けられるように苦しい。
視界が滲む。
涙が止まらない。
エフィナは床に座り込んだまま、肩を震わせていた。
呼吸が乱れ、浅く速くなる。
「……や……っ、は……っ」
どうしようもない不安が、全身を支配している。
そのとき――
「エフィナ!」
扉が勢いよく開いた。
聞き慣れた声。
足音が近づく。
次の瞬間、背中に温かい手が触れた。
「大丈夫、大丈夫……」
カナトだった。
驚かせないように、ゆっくりと、優しく背中をさする。
一定のリズムで、何度も、何度も。
「ほら……ゆっくり、息して」
落ち着いた声。
急かさない。
責めない。
ただ、寄り添う声。
「吸って……ゆっくり吐いて……」
エフィナの肩が、小さく震える。
「……っ、は……」
苦しいままでも、その声に引っ張られるように。
少しずつ、呼吸を整えようとする。
「そう……大丈夫、ゆっくりでいい」
背中をさする手は、止まらない。
「……はぁ……っ……は……」
少しずつ。
ほんの少しずつ。
呼吸のリズムが、落ち着いていく。
乱れていた鼓動も、ゆっくりと戻ってくる。
「……はぁ……」
長く息を吐いたとき。
ようやく、少しだけ余裕が戻った。
カナトは無理に何も言わず、ただ隣に座る。
距離は近い。
でも、押し付けない。
エフィナはまだ涙を拭いながら、小さく呟いた。
「……ごめん……」
「謝ることないって」
すぐに返ってくる声。
優しいけど、軽くもない。
エフィナは少しだけ顔を上げる。
そのまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……怖いの」
声が、震える。
「自信、なくて……」
言葉が、途切れそうになる。
でも、止めない。
「どうすればいいか……分かんなくて……」
視線が落ちる。
手が、ぎゅっと自分の服を掴む。
「でも……」
小さく息を吸う。
「一人で……やらなきゃ、ダメで……」
自分に言い聞かせるように。
何度も、何度も繰り返してきた言葉。
「……私が……やらなきゃ……」
その途中で。
ぽろり、と。
また涙が溢れる。
「……っ、でも……っ」
言葉が続かない。
感情が、堰を切る。
その瞬間――
ふわり、と。
温もりに包まれた。
「……カナト……?」
小さな身体が、優しく抱き寄せられる。
強くもなく、弱くもなく。
壊れ物を扱うみたいに、丁寧に。
「いいよ」
カナトの声が、すぐ近くで響く。
片手でエフィナの頭をそっと撫でる。
ゆっくりと、一定のリズムで。
「無理しなくていい」
その一言で。
エフィナの中の“張り詰めていた何か”が、緩む。
「……っ」
ぎゅっと、カナトの服を掴む。
顔を、その胸に埋める。
「……怖い……」
さっきよりも、はっきりとした声。
「ほんとに……怖い……」
もう隠さない。
強がらない。
「……一人でなんて……無理かも……」
弱音が、次々と溢れる。
カナトは何も遮らない。
ただ、抱きしめたまま、頭を撫で続ける。
「……助言はできないけどさ」
ぽつりと、言う。
「話は聞ける」
優しく。
でも、しっかりと。
「不安とか、怖いとか……全部」
少しだけ腕に力を込める。
「三日後まで、ずっと」
エフィナの髪を撫でながら。
「少しでも怖いって思ったら、いつでも言っていい」
間を置いて。
「俺も」
「ユナも」
「エルネストも」
一つずつ、言葉を重ねる。
「エフィナのためなら、何でもするから」
はっきりとした声。
迷いはない。
「だから……安心しろ」
その言葉を聞いた瞬間。
エフィナの身体が、びくっと震えた。
「……っ、う……」
次の瞬間――
ぎゅっ!!
エフィナが、強く抱きしめ返した。
小さな腕で、必死に。
離さないように。
「うああああああああああああんっ!!」
大きな声で、泣き出した。
子供みたいに。
抑えきれない感情を、全部ぶつけるように。
「怖いよおおおお!!」
「やだよおおおお!!」
「一人やだあああああああ!!」
言葉にならない声が、次々と溢れる。
涙も、止まらない。
カナトは何も言わず、ただしっかりと抱きしめる。
その小さな背中を、何度も撫でる。
「……うん」
短く、静かに。
それだけで、十分だった。
――その様子を。
少しだけ開いた扉の隙間から、見ている影があった。
ユナだ。
腕を組み、壁にもたれながら。
じっと、その光景を見つめている。
エフィナの泣き声。
カナトの姿。
全部、見えている。
「……」
しばらく、何も言わずに見ていた。
やがて。
「……ほんと」
小さく、呟く。
ため息混じりに。
でも、その声はどこか柔らかい。
「今だけだからね」
ぽつり、と。
誰に聞かせるでもなく。
それだけ言って。
ユナは、静かに扉から離れた。
足音を立てないように。
そのまま、自分の部屋へと戻っていく。
背中は、いつも通りだった。
けれど――
ほんの少しだけ、表情が優しくなっていたことに。
気づく者はいなかった。




