第106話:最後の継承戦
前魔王城――玉座の間。
高い天井。黒曜の柱。重く沈んだ空気。
その中心に、二人は立っていた。
エフィナと、ルシエル。
距離はそれほど離れていないはずなのに、間にある“何か”が、その距離を遠く感じさせていた。
周囲には記録官たちが並び、静かにその場を見守っている。
そして、その奥。
玉座の側に、ただ一人。
ジルヴァ・アーク・オベリオンが立っていた。
何も語らず、ただ見ている。
やがて、一人の記録官が一歩前に出た。
「次の継承戦を通達する」
淡々とした声が、広い空間に響く。
「エフィナ・ルア・ファルミナス」
「ルシエル・ヴァル・セレイン」
二人の名が、順に呼ばれる。
「三日後の早朝……」
わずかな間。
「戦闘継承戦にて、対戦とする」
空気が、わずかに張り詰めた。
エフィナの表情が引き締まる。
「なお、今回の戦闘継承戦は特例として――」
記録官は続ける。
「1対1で行う」
その言葉に、周囲が微かにざわめいた。
「補佐役の同行は認められない」
カナト、ユナ、エルネストの姿は、ここにはない。
完全な単独戦。
「また、本戦をもってエフィナ・ルア・ファルミナスの継承戦は終了とする」
エフィナの肩が、ほんのわずかに揺れる。
「以後は、他候補者の継承戦終了まで待機となる」
つまりこの一戦が、事実上の最終戦。
結果次第で、すべてが決まる。
「以上だ」
記録官は視線を二人に向ける。
「質問はあるか」
短い沈黙。
その中で――
すっと、手が上がった。
ルシエル。
気だるげな動き。
だが、その存在感は場を支配していた。
「……ある」
力の抜けた声。
だが、不思議とよく通る。
「今までのルールだと」
少し首を傾ける。
「たぶん、俺が一方的に嬲って終わると思うが」
その言葉は、あまりにも平然としていた。
冗談でも、挑発でもない。
ただの事実の確認のように。
「なっ――」
エフィナの顔が、即座に強張る。
「そんなの……!」
一歩、前に出る。
「やってみないと分からないじゃない!」
強く言い返す。
その瞬間――
「……うるさい」
ルシエルの声が、わずかに低くなる。
次の瞬間。
見えない“何か”が、エフィナを叩いた。
「――っ!?」
身体が宙に浮く。
そのまま、横へ。
ドンッ!!
壁に、叩きつけられた。
衝撃音が、玉座の間に響く。
「……っ、は……!」
息が詰まる。
身体がずるりと崩れ落ちそうになるのを、必死に踏みとどまる。
何が起きたのか。
理解する間もない。
ただ、“圧倒的な力”だけがそこにあった。
「やめろ! これは継承戦外の――!」
記録官の一人が声を上げる。
だが――
「……」
ジルヴァが、わずかに手を上げた。
言葉はない。
しかし、それだけで十分だった。
記録官たちの動きが止まる。
「……」
一瞬の逡巡。
そして誰もが、口を閉ざした。
命令ではない。
だが、逆らえない。
静かに、数歩後ろへ下がる。
場の支配権が、完全に移る。
ルシエルへと。
エフィナは壁に手をつきながら、息を整える。
視線を上げる。
ルシエルは、何もしていないかのように立っていた。
ただ、こちらを見ている。
「……これ」
ぽつりと呟く。
「今のでも、だいぶ抑えてるが」
その言葉に、嘘は一切感じられない。
事実。
それだけ。
一歩。
ルシエルが、ゆっくりと近づく。
足音は小さい。
だが、一歩ごとに圧が増していく。
「三日」
指を三本、軽く立てる。
「あと三日で」
視線が、まっすぐエフィナに突き刺さる。
逃げ場はない。
「この差が埋められると思うか?」
静かな問い。
だがそれは、問いではなかった。
現実の提示。
エフィナの喉が、詰まる。
言葉が出ない。
否定したい。
叫びたい。
だが今、体に残る衝撃が。
この場を支配する圧が。
それを許さない。
「……」
唇が、わずかに震える。
それでも――何も言えない。
ルシエルは、その様子をしばらく見つめ――
「……だろ?」
興味を失ったように、視線を外した。
それだけで、空気がわずかに軽くなる。
だが、残ったものは消えない。
圧倒的な差。
そして――
それを覆すための、残り三日という現実だけだった。
重苦しい沈黙が、玉座の間を満たしていた。
エフィナは壁に手をついたまま、息を整えようとしている。
胸の奥がざわついているのは、痛みのせいだけではない。
――“差”。
たった今、突きつけられた現実。
その中心で、ルシエルは変わらず気だるげに立っていた。
「……これ」
ぽつり、と呟く。
まるで独り言のように。
「このままだと、あまりにも理不尽だと考える」
その言葉に、場の空気がわずかに揺れる。
記録官たちが視線を交わす。
エフィナも顔を上げた。
ルシエルは続ける。
「だから、提案だ」
軽く肩をすくめる。
「今回の戦闘継承戦――」
一拍。
「言動での戦闘継承戦にするのはどうだ?」
「……え?」
エフィナが思わず声を漏らす。
「殴り合いはなし」
ルシエルは指を一本立てる。
「相手を言い負かす」
もう一本。
「これも、一種の“戦闘”だと考える」
その声音は淡々としている。
だが、内容はあまりにも異質だった。
「テーマは――」
少しだけ視線を上げる。
「『魔界の未来と魔王としての資質』」
玉座の間に、その言葉が静かに落ちる。
「勝敗はシンプル」
ルシエルは軽く笑った。
「どっちかが“負けを認める”まで」
ざわり、と空気が動く。
「認めない限り、終わらない」
「……」
「休憩は挟む。でも――」
少しだけ指を横に振る。
「会場からは出られない」
逃げ場はない、ということだ。
「仲間が後ろで見てるのはいい」
さらりと付け加える。
「でも助言は禁止。全部、自分で考える」
完全な個人戦。
精神と思想だけの勝負。
そして――
「まあ」
ふっと、小さく笑う。
「俺には部下とかいないがな」
自嘲気味に肩をすくめる。
その笑みは軽い。
だが、その奥にあるものは読めない。
ルシエルは視線をエフィナに戻す。
「これなら」
ほんのわずかに首を傾ける。
「お前にも、勝てる可能性は出てくる」
事実を述べるように。
「どうする?」
問いが投げられる。
玉座の間が、再び静まり返る。
エフィナの胸が、大きく脈打つ。
(……言葉での、戦い)
頭の中で、可能性が巡る。
確かに純粋な戦闘では、勝ち目が見えない。
それはもう、嫌というほど分かっている。
だが、これなら。
考える余地がある。
選択の余地がある。
勝てる“可能性”が、確かに存在する。
(でも……)
違和感が、消えない。
(なんで、そんな提案を……?)
ルシエルが自ら、有利を手放すような提案。
そんなことをする理由が、見えない。
「……罠、なんじゃないかって」
思わず、口に出ていた。
視線を逸らさず、ルシエルを見る。
ルシエルは一瞬だけ目を細め――
「罠か」
小さく繰り返す。
そして。
「……お前に考える余地があると思うか?」
あまりにも淡々とした一言。
エフィナの思考が、止まる。
「今のままやったら、どうなるか」
軽く首を傾ける。
「分かってるだろ」
否定できない。
できるはずがない。
つい先ほど、体で理解したばかりだ。
「……」
言葉が、出ない。
ルシエルは続ける。
「罠だとしても」
ほんのわずかに、声が柔らかくなる。
「選ばない理由、あるか?」
逃げ場のない問い。
現実と、選択肢。
どちらも、目の前にある。
エフィナは、ゆっくりと目を閉じた。
(……どうする)
怖い。
不安。
分からない。
でも――
(このままじゃ、絶対に勝てない)
それだけは、はっきりしている。
だったら。
(可能性がある方に、賭けるしかない)
たとえそれが罠でも。
何もできずに終わるよりは、ずっといい。
ゆっくりと、目を開く。
迷いは――消えていた。
「……やる」
はっきりとした声。
ルシエルを見る。
「あなたの提案、受ける」
玉座の間に、その言葉が響く。
記録官たちがざわめく。
だが、止める者はいない。
ルシエルは、ほんの一瞬だけ目を細め――
「そっか」
小さく頷いた。
それだけ。
感情の起伏はほとんど見えない。
だが――
ほんのわずかに。
口元が、楽しげに歪んだ気がした。
こうして。
常識を外れた“戦闘継承戦”が、決まった。
殴り合いではない。
力でもない。
思想と覚悟。
そして、“王の在り方”そのものをぶつけ合う戦いが――
三日後、幕を開ける。




