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第105話:夜の訪問者

共存継承戦を終え、重たい空気とどこか張り詰めた余韻を引きずったまま、エフィナとカナトは拠点へと戻ってきた。


扉を開けた瞬間――


「おかえり」


柔らかな声。


だがその声音とは裏腹に、そこに立っていたユナの笑顔には、妙な“圧”があった。


にこり、と完璧な笑み。


しかし、目がまったく笑っていない。


カナトの背筋に、ぞくりとしたものが走る。


「え、えっと……ただいま……」


ぎこちなく答えたカナトに、ユナは一歩近づく。


「……ねえ、カナト」


「は、はいっ」


反射的に背筋を伸ばす。


「言ったわよね?」


にっこり。


「エフィナを主体に流れを作れって」


「すみませんでした!!」


食い気味に頭を下げた。


一瞬の間もなかった。完全降伏である。


その勢いに、横にいたエフィナがびくっと肩を揺らす。


「ち、違うのユナ!あれはその……あたしが、ちゃんと……」


慌てて前に出てフォローしようとするエフィナ。


だが――


「はい、ストップ」


ユナの手がすっと伸びる。


次の瞬間。


むぎゅ。


「ふにゃっ!?」


エフィナの両頬が、ユナの手によって左右から容赦なく挟まれた。


柔らかい頬がむにっと押しつぶされ、口が小さく尖る。


「その通りよ」


にっこりとしたまま、ぐいっとさらに力がこもる。


「ふ、ふにゃ……?」


何が“その通り”なのか理解しきれず、目をぱちぱちさせるエフィナ。


「主体になれてなかったってこと」


淡々と、しかし優しくもない事実の指摘。


むぎゅむぎゅ、と軽く左右に揺らされる。


「ひゃ、ひゃめ……ゆなぁ……」


涙目で抗議するエフィナだが、まったく効いていない。


カナトはその光景を見ながら、さらに深く頭を下げたまま固まっていた。


(助けたほうがいいのか……いやでも今入ったら絶対火に油だよな……)


判断に迷い、結果、動けない。


数秒ほどその状態が続いたあと――


はあ、と小さなため息。


ユナの手が、ぱっと離れる。


「いたた……」


頬を押さえながら、しょんぼりと俯くエフィナ。


「……ごめんなさい」


ぽつりと呟く声は、小さくて弱い。


その姿を見て、ユナはほんの少しだけ表情を緩めた。


「まあ……」


腕を組み、軽く視線を逸らす。


「今回のは、ね」


少し間を置いてから、


「……あの流れだったら、仕方ないか」


そう言った。


その一言で、空気が少しだけ緩む。


カナトがそっと顔を上げる。


「え、じゃあ……」


「完全に許したわけじゃないけど?」


即座に釘を刺される。


「はい、すみませんでした……」


再び小さくなるカナト。


エフィナもまだ頬を押さえたまま、しゅんとした様子で立っている。


そんな二人を見て、ユナはもう一度だけ、ふっと息を吐いた。


「……次はちゃんとやりなさいよ」


その言葉は、先ほどまでの圧とは違い、少しだけ柔らかかった。


エフィナは小さく頷く。


「……うん」


カナトも続く。


「はい」


まだぎこちないが、三人の間に、いつもの空気が少しずつ戻り始めていた。


先ほどまでの張り詰めた空気が、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。


エフィナはまだ少し赤くなった頬を指先で押さえながら、深く息を吐く。


「……よし」


小さく呟き、顔を上げた。


「切り替えましょう」


その声には、先ほどまでのしょんぼりした色はもうない。


カナトもそれに気づき、軽く頷いた。


「だな。次は……ルシエルか」


その名前が出た瞬間、空気がほんの少しだけ重くなる。


ユナが腕を組み、壁にもたれながら言う。


「一番、読めない相手ね」


エフィナもゆっくりと頷いた。


「うん……どの継承戦になっても、きっと……キツい戦いになると思う」


カナトが眉をひそめる。


「そんなにか?ルシエルって、あんまり戦う感じじゃないだろ」


その言葉に、エフィナは少し考えるように目を伏せ――


「……それが、問題なの」


静かに答えた。


「何を考えてるのか、全く読めないの」


その言葉には、はっきりとした警戒が含まれていた。


カナトは少し意外そうな顔をする。


「読めない……?」


そこに、これまで黙っていたエルネストが口を開く。


「同感だ」


低く、落ち着いた声。


全員の視線が自然と彼に集まる。


「野心が……感じられん」


腕を組み、わずかに目を細める。


「かといって、魔王になる気がないようにも見えない」


ユナが小さく「それ」と頷く。


「普通なら、どっちかに振れるはずなのよね。欲があるか、ないか」


「でもあいつは、そのどっちでもない」


カナトは腕を組みながら、うーんと唸る。


「なんか……一番厄介なタイプだな、それ」


エフィナは静かに肯定する。


「うん。だからこそ……」


一瞬、言葉を探すように視線を落とし――


「どの形式でも、油断できない」


その声ははっきりしていた。


戦闘なら、本気を出してくるかもしれない。


統治なら、想像もつかない判断を下すかもしれない。


共存なら――何を選ぶのか、まったく見えない。


沈黙が落ちる。


それぞれが、同じ結論にたどり着いていた。


――読めない相手は、最も対処しづらい。


しばらくして、カナトがふっと息を吐いた。


「……でもさ」


その一言で、皆の意識が彼に戻る。


「ここで考えてても、仕方なくないか?」


あっけらかんとした声。


だが、不思議と軽くは聞こえなかった。


「どうせ、どの継承戦になるかも分からないんだし」


肩をすくめながら続ける。


「だったらさ――」


一歩、前に出る。


「どれが来てもいいように、万全で行くしかないだろ」


シンプルで、逃げのない結論。


だが、それが一番現実的だった。


エフィナは一瞬、目を瞬かせ――


それから、ふっと小さく笑った。


「……そうだね」


迷いが、少しだけ晴れる。


ユナも軽く肩の力を抜く。


「結局それが一番確実か」


エルネストも、ゆっくりと頷いた。


「うむ。備えこそが、最も裏切らない」


短いが重い言葉。


カナトがにっと笑う。


「よし、決まりだな」


その場にいる全員が、自然と頷いた。


不確定な相手。読めない思考。見えない未来。


それでも――


進むべき道は、はっきりしていた。


どんな戦いが来ようと、全力で迎え撃つ。


その意思だけが、静かに、確かに共有されていた。


夜は深く、魔界の空には鈍い光が滲んでいた。


風もない。


音もない。


ただ、石畳を叩く杖の音だけが、規則正しく響いている。


――カン、カン。


ヴォルツは一人で歩いていた。


人間で言えば初老に差し掛かった外見。だがその歩みには衰えなど一切なく、むしろ研ぎ澄まされた静けさがあった。


「……」


その足が、わずかに止まる。


ほんの一瞬。


しかしそれは、確かな違和感を捉えた証だった。


(……今のは)


背後。


気配。


振り返る。


しかし――


「……誰も、いないか」


視界に映るのは、ただの闇。


気配も、音も、何も残っていない。


しばし沈黙。


やがて、ヴォルツは小さく息を吐いた。


「気のせい……か」


再び歩き出そうと、前を向いた――その瞬間。


「――なっ」


そこに、“いた”。


音もなく。


気配もなく。


目の前、数歩の距離。


外套を深く被り、顔は完全に闇に沈んでいる。


いつからいたのか。


どうやって現れたのか。


一切が不明。


ヴォルツの身体が、反射的に動いた。


地を蹴り、一気に後方へ飛び退く。


間合いを取る。


杖を構え、鋭く睨む。


「……貴様」


低い声。


しかしその内側には、確かな緊張が走っていた。


(この気配……)


違和感が、確信へと変わる。


「シェーヴァを襲った者……か」


問いかける。


だが――


返答は、ない。


ただ、立っているだけ。


呼吸の気配すら、感じられない。


「……ふむ」


ヴォルツの目が細くなる。


「今度は、私というわけか」


再び問う。


それでも――沈黙。


微動だにしない。


意思の欠片すら見えない。


数秒の静寂。


やがて、ヴォルツはふっと小さく笑った。


「……まあ、どうでもいい」


興味を断ち切るように呟く。


そして――


杖の先を、軽く地面に打ちつけた。


カン。

カン。


その音が、夜の静寂に溶ける――と同時に。


気配が、増えた。


一つではない。


二つでもない。


十、二十――いや、それ以上。


建物の影から、屋根の上から、闇の中から。


次々と姿を現す影。


ヴォルツの部下たちだ。


無駄のない動きで、円を描くように配置につく。


完全包囲。


逃げ場はない。


ヴォルツはゆっくりと杖を持ち直し、口元をわずかに歪めた。


「何の策もなく、一人で歩いているとでも思ったか」


静かな嘲り。


それに応えるように、部下たちが一斉に構える。


合図は不要。


次の瞬間――


全員が動いた。


闇を裂き、音もなく、同時に間合いを詰める。


完璧な連携。


一切の隙のない包囲殲滅。


――のはずだった。


「……?」


最初に違和感を覚えたのは、ヴォルツだった。


速すぎる。


いや――


“終わるのが”、早すぎる。


一瞬。


本当に、一瞬だった。


視界の中で、何かが“動いた”。


それだけ。


次の瞬間には――


音が、消えていた。


「……なに?」


誰も、動いていない。


いや、違う。


動けていない。


一人、また一人と。


部下たちの身体が、崩れ落ちていく。


どさり。


鈍い音が、順番に響く。


十。

二十。

それ以上。


わずか数秒のうちに。


立っている者が、いなくなった。


そこに残ったのは――


動かない身体の山。


静寂。


血の匂いすら、遅れて漂ってくる。


ヴォルツの目が、わずかに見開かれる。


(……馬鹿な)


何が起きたのか、理解が追いつかない。


視線を戻す。


外套の人物は――


何も変わらず、そこに立っていた。


一歩も動いた気配すらない。


まるで最初から、何もなかったかのように。


だが現実は、目の前にある。


積み上がった“結果”が、それを否定しない。


ヴォルツの握る杖に、わずかに力がこもる。


「……なるほど」


低く、呟く。


先ほどまでの余裕は、消えていた。


代わりにあるのは――


純粋な警戒。


「これは……想定以上だな」


夜は、依然として静かだった。


だがその静けさは、先ほどまでのものとはまるで違っていた。


崩れ落ちた部下たちの中で、ただ一人。


ヴォルツだけが立っていた。


静寂。


風すらない夜に、異様な光景だけが広がっている。


その中心でヴォルツはゆっくりと、目の前の外套の人物を見据えた。


先ほどまでの余裕は消え、だが恐怖でもない。


ただ、研ぎ澄まされた意識だけがそこにある。


「……一瞬で、これか」


低く呟く。


視線は逸らさない。


「見事だ」


それは皮肉ではない。純粋な評価だった。


一拍、間を置いて。


「……で?」


杖の先を、わずかに持ち上げる。


「殺すのか?」


問いは短く、核心を突く。


だが――


返答は、ない。


外套の人物は、やはり何も言わない。


ただ、静かにヴォルツを見ている。


その沈黙が、逆に場の緊張を引き延ばす。


数秒。


いや、もっと長く感じる時間。


やがて――


その人物の手が、ゆっくりと動いた。


外套の留め具に触れる。


かちり、と小さな音。


ヴォルツの視線が、わずかに細くなる。


(……見せる気か)


次の瞬間。


外套が、滑るように肩から落ちた。


布が地面に触れる音が、やけに大きく響く。


そして――


“顔”が、露わになる。


月明かりが、その輪郭をなぞる。


だが。


その詳細がどうであったかは、ここでは語られない。


ただ一つだけ、確かなことがある。


それを見た瞬間――


ヴォルツの表情が、変わった。


「……っ」


ほんの一瞬。


確かに、驚きが走る。


目がわずかに見開かれ、呼吸が止まる。


それは、この場に至るまで一度も見せなかった反応だった。


しかし――


次の瞬間。


その驚きは、すっと消える。


代わりに浮かんだのは――理解。


「……そうか」


ぽつりと、呟く。


すべてが繋がったかのように。


シェーヴァの襲撃。


この圧倒的な力。


気配のなさ。


そして、今、目の前にいる“それ”。


断片だったものが、一つの線になる。


「なるほど……なるほどな」


声に、わずかな熱が混じる。


先ほどまでの警戒とは違う。


それは――納得。


そして。


「はは……」


小さく、笑いが漏れた。


肩がわずかに揺れる。


抑えきれない、というよりは。


“ようやく腑に落ちた”者の笑い。


「そういうことか」


杖を持つ手の力が、わずかに抜ける。


視線は変わらず鋭いままだが、そこに宿る色が変わっていた。


敵を見る目ではない。


未知を見る目でもない。


理解した者が、次に来るものを受け入れる目。


「……面白い」


ゆっくりと口角が上がる。


先ほどまでの緊張とは真逆の、静かな高揚。


「実に、面白い」


夜の闇の中。


屍の山の前で。


ヴォルツ・アビスホーンは――


はっきりと笑っていた。

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