第100話:共存継承戦⑧
峡谷の空気は張り詰めていた。
ヴォルツの問いかけが、まだ空気の中に残っている。
どこが“完全”ではないと言うのだ?
全員の視線がカナトに集まっていた。
巨人族の長は腕を組んだまま睨み、獣族の長は牙を見せて低く唸り、影の一門の長は静かに目を細めている。
だが、カナトは慌てる様子もなく、ゆっくりと口を開いた。
「……その答えを出すのは」
一拍。
「俺じゃない」
その言葉に、場がざわめく。
ヴォルツの眉がわずかに上がった。
「……ほう?」
カナトは振り返った。
背後で頭を下げたままのエフィナを見る。
「エフィナ」
静かに言う。
「お前だ」
エフィナの肩がぴくりと動いた。
カナトは一歩だけ横に退く。
「俺じゃなくて、エフィナが話す」
その瞬間。
巨人族の長が怒鳴った。
「ふざけるな!」
岩を震わせるような声だった。
「まだその小娘が話すことを許した覚えはない!」
獣族の長も低く唸る。
「人間……調子に乗るな」
影の一門の長の声も冷たい。
「我らの時間を弄ぶつもりか」
空気が一気に険悪になる。
だが、カナトは一歩も引かなかった。
三種族の長を正面から見据える。
そして、低く言った。
「……今聞かないと」
ほんの少し声を強める。
「きっと後悔するぞ」
その言葉に、場が凍った。
誰もが一瞬言葉を失う。
それは怒鳴り声でも威圧でもない。
ただ静かに言っただけだ。
だが。
その言葉には妙な重みがあった。
三種族の長たちが、わずかに目を細める。
カナトはこの場で——
誰よりも弱い。
力もない。
種族としても最弱の人間。
それなのに。
一歩も退かない。
その様子を、ヴォルツはじっと見ていた。
やがて。
老人の口元が、ゆっくりと歪む。
「……くく」
低い笑い声が漏れた。
「面白い」
杖を地面に軽く突く。
カン、と乾いた音が響いた。
ヴォルツはゆっくりとカナトを見る。
「カナト」
目を細める。
「この場で一番弱いおぬしが」
「一番強気とはのう」
カナトは肩をすくめた。
「まあ……」
「慣れてるんで」
ヴォルツはしばらくカナトを見つめていた。
やがて、ため息のように息を吐く。
「……よかろう」
杖を軽く振る。
「聞くだけ聞いてやる」
三種族の長がすぐに反応した。
「ヴォルツ!」
巨人族の長が眉をひそめる。
「本気か」
獣族の長も不満そうに尻尾を振る。
影の一門の長も静かに言う。
「時間の無駄では」
ヴォルツは軽く手を上げて制した。
そして三人にちらりと目配せする。
その目はどこか面倒そうだった。
「まあそう怒るでない」
少し投げやりな口調で言う。
「聞くだけだ」
「どうせつまらぬ話なら、その場で打ち切ればよい」
三種族の長は不満げに顔を見合わせる。
だが——
ヴォルツが決めた以上、強くは反対しない。
巨人族の長が大きく息を吐いた。
「……好きにしろ」
獣族の長も鼻を鳴らす。
「くだらなければすぐ終わらせる」
影の一門の長も静かに頷いた。
「それで構わない」
ヴォルツは満足そうに頷く。
そしてゆっくりとエフィナを見る。
その視線は、まるで試すようだった。
「……さて」
杖を鳴らす。
カン、と音が峡谷に響く。
「小娘」
口元に薄い笑みを浮かべる。
「話してみるがよい」
少し肩をすくめる。
「もっとも」
「つまらぬ話なら、すぐ終わりじゃがな」
エフィナはまだ頭を下げたままだった。
だが、その拳はぎゅっと握られている。
カナトが静かに横に立つ。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
エフィナはゆっくり息を吸った。
そして顔を上げた。
峡谷の中央。
三種族の長とヴォルツが半円を描くように立ち、その中心にぽっかりと空間が空いていた。
まるで、そこが「話す者の席」であるかのように。
エフィナはその場に立ったまま、まだ動けずにいた。
周囲から向けられる視線は冷たい。
巨人族の長は腕を組み、獣族の長は牙を覗かせ、影の一門の長は静かにこちらを見据えている。
そしてヴォルツは杖を軽く地面に突きながら、面白そうにエフィナを眺めていた。
その時だった。
横から、軽く腕を引かれる。
エフィナがはっと振り向く。
カナトだった。
何も言わない。
ただ、エフィナの横に立つと、軽く顎をしゃくって前を示した。
——行け。
言葉はなかったが、そう言っているのが分かった。
カナトは一歩前に出て、エフィナの肩を軽く押すようにして中央へ導く。
まるで舞台の中央へ送り出すように。
エフィナの足が自然と前へ出る。
二歩、三歩。
気づけば、三種族とヴォルツの真正面に立っていた。
背中に視線を感じる。
カナトだ。
エフィナは思わず振り返った。
さっき——
喧嘩したばかりだ。
「好きにしろ」
そう言われて、背を向けられた。
もしかして——
まだ怒っているんじゃないか。
恐る恐る、顔を見上げる。
カナトの表情は険しかった。
いつもの穏やかな笑顔ではない。
少し眉を寄せて、真剣な顔をしている。
その顔を見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。
やっぱり怒ってる——
そう思った。
でも。
その目を見た時、エフィナは気づく。
その表情の奥にあるものに。
カナトの目は、まっすぐエフィナを見ていた。
責める色はない。
呆れもない。
ただ——
「任せた」
そう言っているような目だった。
エフィナの胸の奥が、じわりと熱くなる。
さっきまで胸を締めつけていた不安が、少しずつほどけていく。
カナトは、怒っていない。
それどころか。
——信じてくれている。
その事実が、胸に込み上げてくる。
気づけば、エフィナの視界が滲んでいた。
ぽろり、と涙が浮かぶ。
カナトはそれを見て、小さく息をついた。
そして。
ぽん、と。
エフィナの背中を軽く叩いた。
驚いて振り向く。
カナトは少しだけ笑った。
ほんの一瞬だけ。
それは、エフィナがよく知っている顔だった。
村で見てきた。
何度も助けられた。
あの優しい顔。
カナトは短く言った。
「頑張れ」
それだけだった。
余計な言葉はない。
でも。
それだけで十分だった。
エフィナの胸の奥で、何かが強く燃え上がる。
涙を袖で拭う。
そして前を向く。
カナトはそれを確認すると、ゆっくり一歩下がった。
さらにもう一歩。
エフィナの背後へ。
完全に一歩引いた位置に立つ。
まるで「これはお前の戦いだ」と言うように。
エフィナは大きく息を吸った。
目の前には。
ヴォルツ。
そして三種族の長。
誰一人として味方はいない。
——いや。
一人だけいる。
背後に。
エフィナは拳を握りしめた。
重苦しい沈黙の中で、エフィナはゆっくりと口を開いた。
「……輪番制は、無理です」
その言葉は静かだったが、はっきりと響いた。
三種族の長たちがすぐに反応する。
「何だと?」
巨人族の長が低く唸り、岩のような腕を組み直す。
獣族の長は耳をぴくりと動かし、鋭い牙を見せる。
影の一門の長も外套の奥で目を細めた。
「今さら何を言う」
ざわめきが広がる。
だが、その中心に立つヴォルツだけは表情を崩さなかった。
杖に体を預けながら、ゆっくりと首を傾げる。
「……ほう」
口元に薄い笑みを浮かべた。
「無理、とな?」
その声には焦りはない。
むしろ面白がっているようだった。
ヴォルツはエフィナを見下ろす。
「では聞こう」
杖の先で軽く地面を叩く。
「どう無理だと言うのだ?」
エフィナは深く息を吸った。
視線の端に、カナトの姿がある。
だが振り向かない。
今は、自分が話す番だ。
エフィナは三種族を順に見た。
「まず巨人族」
巨人族の長の眉がぴくりと動く。
「あなたたちの身体で、高地を移動するのは現実的じゃありません」
巨人族の長が低く唸る。
「……続けろ」
エフィナは頷き、獣族の長を見る。
「獣族は縄張りを大事にする種族です」
「狩場を年単位で変えることは、群れの秩序を壊します」
獣族の長が尻尾を強く振った。
エフィナは最後に影の一門を見る。
「影の一門は水脈を管理しています」
「地下水の流れは、長い時間をかけて整えるものです」
「一年ごとに場所を変えるなんて無理です」
言い終えた瞬間、三種族の長たちの間にざわめきが広がる。
巨人族の長は黙り込んだ。
獣族の長も牙を引っ込める。
影の一門の長もわずかに視線を落とす。
確かに言われてみればその通りだった。
だが。
そのざわめきを、ゆっくりとした笑い声がかき消した。
「……くく」
ヴォルツだった。
老人は肩を小さく揺らして笑っている。
「なるほどのう」
ゆっくり顔を上げる。
その目は完全に見下していた。
「ない頭なりに頑張ったようじゃな」
三種族の長たちがわずかに顔をしかめる。
エフィナの拳がぎゅっと握られる。
ヴォルツは続けた。
「確かにその通りじゃ」
「あの三種族にとって、輪番制は面倒だろう」
杖を軽く振る。
「だがな」
その声が少し低くなる。
「それでも成立する」
エフィナの瞳が揺れた。
ヴォルツはゆっくりと三種族を見回す。
「巨人族」
「移動が難しいのは事実じゃ」
巨人族の長は黙っている。
ヴォルツは続ける。
「獣族」
「縄張りを変えるのは不便だろう」
「だが一年という期間があれば、群れは順応する」
獣族の長が低く唸る。
ヴォルツは影の一門を見る。
「水脈管理」
「確かに時間はかかる」
「だが一年の猶予があれば、最低限の管理はできる」
そして。
ヴォルツはエフィナを見下ろした。
「つまりだ」
口元が歪む。
「不便ではある」
「だが」
「不可能ではない」
杖を地面に打ちつける。
カン、と乾いた音が響く。
「だからこそ意味がある」
ヴォルツは豪語した。
「互いに譲る」
「互いに我慢する」
「それが共存じゃ」
目を細める。
「私の案は」
一拍置く。
「一部の隙もなく完璧じゃ」
その言葉に、三種族の長たちが静かに頷いた。
確かに。
不満はある。
だが。
破綻はしない。
それがヴォルツの提案だった。
その様子を、カナトは黙って見ていた。
腕を組み、静かに。
その目は冷静だった。
(……やっぱり)
心の中で呟く。
ヴォルツは気づいていない。
自分の提案の綻びに。
カナトには、それが見えていた。
だが——
何も言わない。
これはエフィナの戦いだ。
カナトはただ、黙って見守る。
ヴォルツは杖を軽く鳴らした。
「さて」
面倒そうに息を吐く。
「もうよいだろう」
エフィナを見る。
「話は終わりだ」
そして三種族の長に向き直る。
「では」
「先ほどの話の続きだが——」
その瞬間だった。
「……待ってください!」
エフィナの声が響いた。
ヴォルツの言葉が止まる。
老人はゆっくり振り返る。
エフィナは前に一歩出ていた。
瞳はまっすぐヴォルツを見ている。
拳は震えている。
それでも。
一歩も引かない。
エフィナは言った。
「まだ終わってません」
峡谷の空気が、再び張り詰めた。




