第99話:共存継承戦⑦
峡谷の奥は静まり返っていた。
風が岩肌を撫で、遠くで水の滴る音がするだけだ。
エフィナは唇を噛んだ。
「……どうしたらいいの……」
拳を握りしめる。
胸の奥が苦しい。
頭の中に浮かぶのは、さっきの光景ばかりだった。
三勢力は言い争い、誰も話を聞かない。
ヴォルツは余裕の笑みで見下ろしていた。
そして——
カナト。
「好きにしろ」
そう言って背を向けたカナトの姿。
胸が締め付けられる。
「違う……」
ぽつりと声が漏れた。
「違うの……」
カナトが敵と組んだと思った。
ヴォルツに賛同するなんて理解できなかった。
でも——
思い返す。
カナトは何度も説明しようとしていた。
それを拒絶したのは自分だ。
「……最低」
エフィナは小さく呟いた。
カナトはいつだって自分を助けてくれた。
村で出会った時からずっと。
自分が魔族だと知っても逃げなかった。
聖ヴェリシア王国で処刑されかけた時だって——
独りで戦おうとした。
それなのに。
「あたし……」
膝を抱える。
「何やってるんだろ……」
涙が一筋、頬を伝った。
その時だった。
ふと、ヴォルツの言葉が頭をよぎる。
一年ごとの輪番制。
最初は乱暴な案だと思った。
力で従わせるだけの提案だと。
でも。
エフィナはゆっくり顔を上げた。
「……あれ?」
違和感が浮かぶ。
巨人族。
あの巨大な身体。
一年ごとに高地を移動する?
ありえない。
獣族。
縄張りを持つ種族。
狩場を年単位で変える?
そんなことをする種族じゃない。
影の一門。
水脈を管理している。
地下水の流れは、長い年月をかけて整えるものだ。
「……できるわけない」
エフィナは呟いた。
輪番制。
成立するはずがない。
なら——
どうしてカナトは賛同した?
あのカナトが。
村の誰よりも慎重なカナトが。
ありえない案に乗る?
エフィナの目が見開かれる。
「……時間」
争いを止める。
とりあえず止める。
その間に——
「……考える時間を作る」
エフィナの呼吸が止まった。
「……カナト」
胸の奥で何かが崩れた。
あの時。
三勢力は今にも衝突しそうだった。
あのままなら——
戦いになっていた。
だから。
まず止めた。
どんな形でもいいから。
争いを止めるために。
エフィナはゆっくり立ち上がった。
「……あたし」
視界が滲む。
「何も分かってなかった」
カナトは裏切っていなかった。
むしろ。
自分の失敗を必死に支えていた。
それなのに。
『……ほっておいてよ』
自分はそう言った。
胸が痛む。
でも。
今は立ち止まっている場合じゃない。
三勢力はまだ対立している。
ヴォルツは動いている。
このままだと——
負ける。
エフィナは拳を握った。
「……謝らないと」
そして。
「……考えないと」
輪番制は無理だ。
でも。
三勢力はそれぞれ必要なものがある。
水源。
高地。
狩場。
全部同じ峡谷にある。
エフィナはゆっくり峡谷を見上げた。
高い岩山。
その隙間から流れる水。
下には森が広がっている。
「……あ」
小さく声が漏れた。
水は高地から流れる。
森は水で育つ。
森があるから獣が生きる。
そして——
巨人は山を守る。
エフィナの瞳に光が戻る。
「……分ける必要なんて」
ない。
全部。
繋がっている。
「……共存」
その言葉が、初めて形を持った。
エフィナは深く息を吸った。
そして。
走り出した。
峡谷の広場へ向かって。
「カナト……!」
今度は。
逃げない。
ちゃんと話す。
そして——
自分の言葉で。
この戦いを終わらせる。
峡谷の中央。
三つの勢力の長が、互いに一定の距離を取りながら円を作っていた。
巨人族の長は岩壁にもたれかかるように腕を組み、獣族の長は低く唸りながら尻尾を揺らし、影の一門の長は黒い外套の奥で静かに目を細めている。
その中心に立っているのはヴォルツだった。
杖を軽く地面に突きながら、ゆったりとした口調で話している。
「……よいか。今さら細かい理想を語る必要はない。要は、争いが起こらねばよいのだ」
初老の男の落ち着いた声が峡谷に響く。
「一年ごとの輪番制。単純だが、だからこそ破綻しにくい」
巨人族の長が低く唸る。
「ふん……気に入らぬが、争い続けるよりはましだ」
獣族の長が鼻を鳴らす。
「一年ごとに狩場を変えるなど面倒だがな」
影の一門の長が静かに言う。
「だが……互いに干渉しない仕組みではある」
ヴォルツは満足そうに頷いた。
「そういうことだ」
その横で、カナトが腕を組んで話を聞いていた。
表情は穏やかだが、どこか考え込んでいる。
その時だった。
「……待ってください!」
峡谷に、少女の声が響いた。
全員の視線が一斉に向く。
息を切らしながら、広場に駆け込んできたのはエフィナだった。
髪は乱れ、肩で大きく息をしている。
だが、その瞳は先ほどとは違っていた。
強い光が宿っている。
エフィナは中央まで歩み出ると、深く頭を下げた。
「……もう一度、あたしの話を聞いてください」
一瞬の沈黙。
そして——
ヴォルツが鼻で笑った。
「くく……まだおったのか、小娘」
巨人族の長が不機嫌そうに腕を組む。
「聞く必要はない」
獣族の長も吐き捨てる。
「時間の無駄だ」
影の一門の長も冷たく言う。
「我らはすでに話を進めている」
エフィナは顔を上げない。
ただ、深く頭を下げたままだった。
「……お願いします」
その声は震えていた。
だが、逃げてはいない。
三種族の長は完全に無視し、話を戻そうとした。
その時だった。
「……ちょっと待ってください」
静かな声が入る。
カナトだった。
全員の視線がカナトに向く。
カナトはゆっくり前に出ると——
三種族の長に向かって、深々と頭を下げた。
「聞くだけ聞いてもらえませんか」
突然の行動に、場がざわめく。
巨人族の長が目を細める。
「……何だと?」
カナトは頭を下げたまま続ける。
「途中で聞くに耐えないと思ったら、その時点で終わりで構いません」
獣族の長が低く唸る。
「貴様……」
影の一門の長が静かに言う。
「先ほど、お前はこの老魔族の案に賛同したはずだ」
ヴォルツもゆっくりとカナトを見る。
その視線は鋭い。
「……人間」
杖を軽く鳴らす。
「おぬし」
「一度は受け入れた提案を覆すつもりか?」
空気が一瞬で張り詰めた。
三種族の長も、エフィナも、全員がカナトを見る。
カナトはゆっくり顔を上げた。
そして——
はっきり言った。
「覆すつもりはありません」
ヴォルツの眉がわずかに動く。
「……ほう?」
カナトは続ける。
「俺は今でも、ヴォルツの提案はすごいと思ってる」
三種族がざわつく。
カナトは穏やかに言った。
「正直、かなり上手い案だと思う」
「争いを止める方法としては、成功する可能性も高い」
ヴォルツはじっとカナトを見つめている。
「……ならば」
低く問う。
「なぜじゃ?」
「何故わざわざ小娘に口を開かせようとする」
カナトは一瞬だけエフィナを見た。
エフィナはまだ頭を下げたままだ。
カナトは少しだけ笑った。
そしてヴォルツに向き直る。
「理由は簡単です」
ゆっくり言う。
「ヴォルツの案は——」
一拍置く。
「まだ”完全”じゃない」
「そして俺はエフィナの仲間だ」
その瞬間。
空気が凍りついた。
巨人族の長が目を見開く。
獣族の長が牙を見せる。
影の一門の長の目が鋭く細まる。
そして——
ヴォルツ。
老人の目が、静かに細くなる。
「……ほう」
杖を鳴らす。
「”人間”」
その声は低く、楽しげだった。
「では聞こうか」
「どこが”完全”ではないのかを……」




