裏切り
「ぐ、あああああああっ!!」
全く反応できないまま杖が振り下ろされた。痛烈な痛みが走ると共に感覚が無くなり、脱力する。握っていた剣が地面に突き刺さり、引き抜こうにも有り得ないほどに重かった。
呻きながら左手で肩を抑える。
ぐじゅ、っと明らかに人の体から鳴ってはならない音がした。感触は柔らかく、寧ろ柔らかすぎるほどで、血か何かで湿っている。
恐る恐る、その右肩へ視線を落とした。
杖を振り上げられたとき、既にどうなるか理解していた。したくなかった、認めたくなかった。見てしまえばもう否定はできなくなるというのに、それでも壊れかけの機械のように首が動いていく。
杖で打たれたその肩は腐っていた。
抗いようのない事実が視界に焼き付く。背筋を這い上がる畏れに松明が落ちる。そのままへたり込んで、左手で自分を抱いた。握った右の二の腕まですでに腐敗は進んでいて、確実に体が蝕まれていく感覚にただ震える。
このままゾンビになったとしてどうなる。まさか意識はそのままなんて事は無いだろう。無いはずだ。こいつの言いなりになって人を殺していくのを永遠と見せられるなんて絶対ゴメンだ。ああ、そんなことになるならいっそ、殺してくれ。
絶望の言葉が脳裏をよぎる。一度ちらついたそれは一向に消えてくれず、ただ救いを願うように心の中を埋め尽くした。
いや、今ならまだこの剣を引き抜けば間に合うかもしれない。
淡い希望を抱いて、まだ自由に動く左手を伸ばした。その先を遮るように真っ暗な闇が視界を覆う。恐怖に身を引くと、それが手の形を成していることに気付いた。
まさか。
見上げると、覆い被さるようにして影がこちらに手を向けていた。相変わらず顔の部分には闇がたゆたい、その窺い知れぬ感情に寒気がした。
瞬間、言いようも無い衝撃が全身を駆け巡った。咄嗟に頭を抱え、俯く。
「なんだ、これ……」
全身を冷たい風が包み込む。ひたすらに渇いて、飢えに喉を掻き毟りたくなる。懇願するように、再び影を見上げた。
殺せ。
何も考えられなくなった頭に、言葉が一つ浮かび上がっていく。それはさっきの願望と同じように、すぐに頭の内を埋め尽くした。
殺せ。生きる者全てを殺せ。同族を殺せ。殺して喰らい、その身を癒やせ。
湧き上がる黒い感情に抗うことができない。気付けばもう右腕は手首まで腐っていて、首筋にまで至っていた。このままでは確実に、ゾンビになる。
芽生えた恐怖も、恨み呪いで塗り潰されていく。ただ衝動を抑え続けるので精一杯だった。これを受けて尚、ハルトは笑っていたというのか。
では、そうだな。先ず手始めにあの小娘を殺せ。
上からそんな声が聞こえた気がした。ゆっくりとその方向へ顔を向けると、また、あの暗い闇が見える。だが今度は、その顔が笑っているような気がした。
殺して、その肉を喰らうがいい。
「やめろ」
言葉とは裏腹に、右腕が力強く剣を掴む。それを寄る辺として少しずつ体が起きていった。
「やめろ、やめてくれ」
うわごとのように懇願を続ける。だが既に体は思い通りには動いてくれず、遂に全身が立ち上がる。躊躇無く刺さった剣を抜き、振り向いた。
「ひっ」
心配をしてくれていたのだろうか、遠目に見える位置にアンナの姿を確認する。俺が振り向いたことで小さく悲鳴を上げ、子鹿のように震えていた。
殺したい。
初めて、人に対してこれほど強い殺意を抱いた。
もう俺の中の抵抗する声は小さくなって、ぎこちないながらも1歩1歩、アンナに近付いていく。逃げる気力もないのか、彼女は震えてただそこに立っていた。
せめて逃げてくれ。頼む。俺の意識があるまま、二度とこの手を汚したくない。
浮かぶ願望が口を突くことは無い。ただ開いた口から生暖かい息を吐き出して、その様子にアンナがビクッと跳ねた。
俺の剣があと少しで届くといった距離で、やっとアンナは後退りを始める。
そうだ、そうやって、逃げてくれ。
俺の願いも虚しく、すぐにアンナは足元の石に転んでしまった。尚俺の歩みは止まらず、恐怖に満ちた目で見上げられる。
「旅人さん……」
幾つもの感情がない交ぜになって向けられた言葉に、やっと人語を思い出したように言葉が口を出た。
「頼む、逃げてくれ、頼む」
いくら願っても、アンナは逃げようとしてくれなかった。剣を振り上げようとする右腕を全力で抑える。だが、それも長くは持ちそうに無い。
「旅人さんは、私を殺すんですか?」
「……できればそうしたくない。だが、もう我慢できそうに無いんだ、早く逃げてくれ」
「そうやって、お兄ちゃんを殺したんですか?」
言葉が胸に突き刺さった。喘ぐように息が吐き出され、半歩下がる。アンナの目にもう恐怖の色は無く、ただ、何と表現すればいいか分からない強い感情が宿っているようだった。
やめろ、やめてくれ、その目で俺を見ないでくれ。
「あれは仕方なかったんだ」
「そう言って、私を殺すんですか」
「だって、じゃあどうしろっていうんだよ」
どれほど情けない声を上げていたのだろう。泣き声ような自分の台詞が頭の中で反響する。
手を打とうにも、自分の体が言うことを聞いてくれない。これでは本当に、どうにもできないじゃないか。この上でどうしろっていうんだ。
言い訳を連ねながらただ立ち尽くしていると、アンナが毅然とした表情で姿勢を変えた。それは正座のようで、何度か見た、祈りを捧げるポーズの内の一つだった。
「わかりました」
その姿勢のまま指を組み、胸の前へ持って行く。そうやって静かに瞑目して、何処までも澄んだ綺麗な声で言葉が紡がれる。
「逃げても、私一人ではどうしようもありません。ここで貴方の手で殺して下さい」
あまりに美しいその声に、許されたと思ってしまった。一瞬、張り詰めた糸が緩んでしまった。その隙を逃すまいと、勢いよく腕が振り上がる。
やめろ! と咄嗟に呼びかけてもそれは止まってくれなかった。高く掲げられたそれは、祈り俯いているその首へと一直線に落ちていく。彼女の微かな願いすらも、断ち切ってしまうように。
「お兄ちゃん……」
間際、呟くように弱々しい声が聞こえた。




