第93話:解放
広間の静寂は、長く、続いた。
男が、ゆっくりと、顔を、上げた。
その顔に、人間らしい表情が、完全に、戻っていた。
哀しみ。
喜び。
安堵。
そして——深い、疲労。
何百年分の、感情。
それが、全て、男の顔に、一度に、浮かんでいた。
俺たち四人は、何も言わずに、男を、見守っていた。
男が、深く、息を、吐いた。
初めて、人間らしい呼吸を、するような動作だった。
やがて——男の口が、動いた。
「……」
掠れた、声。
ほとんど、風のような、声。
でも、確かに、言葉だった。
「強くなることと」
男が、言った。
「帰ることは、同じだと、思っていた」
俺は、黙って、聞いた。
翔も、葵も、美咲も、動かなかった。
「強くなれば、帰れると、信じた。塔の頂上まで、行けば、答えが、あると、信じた」
男の声が、少しずつ、はっきりしてくる。
何百年分の、沈黙を、取り戻しているような、話し方だった。
「でも、いつの間にか——」
男の目が、少し、伏せられた。
「帰る場所も、帰る理由も、待ってた人の顔も——全部、忘れた」
広間に、重い沈黙が、流れた。
男が、続けた。
「気づいた時には、もう、戻れなかった。塔が、俺を、縛っていた」
俺は、男を、見つめた。
「何百年、ここに、いたんですか」
男が、少し、首を、傾げた。
「分からない。もう、数えていない」
それから、男は、俺を、見た。
「お前たちを、見ていた」
「見てた?」
「四人で、助け合い、笑い、時には、泣いて。俺が、失ったものを、全部、持っていた」
男の声に、初めて、温度のようなものが、宿った。
「だから、助けた。でも——時には、試した。お前たちが、俺と同じになって、欲しくなくて」
翔が、小さく、息を漏らした。
「……そっか」
葵が、涙を、こらえていた。
美咲が、静かに、頷いた。
男が、俺を、真っ直ぐに、見た。
「お前たちは」
「はい」
「忘れるな」
低い、でも、力のある声。
「頂上まで、行け。門を、開けろ。そして——誰の顔を、思い浮かべながら、帰れるかを、確かめろ」
俺は、頷いた。
「忘れません」
俺は、短く、答えた。
「遥斗が、待ってる」
男が、初めて——ほんのわずかに、口元を、緩めた。
笑顔とも、微笑みとも、呼べない。
でも、それに、近いもの。
何百年ぶりかもしれない、その表情。
「そうか」
男が、言った。
「なら、行け」
塔が、再び、揺れ始めた。
今度は、脈動ではない。
崩壊の、揺れだった。
壁が、ひび割れる。
床が、波打つ。
天井の石が、落ち始める。
「塔が——!」
翔が、叫んだ。
「急げ、蓮——!」
男が、俺に、言った。
「俺のことは、気にするな。頂上まで、走れ」
「でも——」
「俺は、もう、終わった」
男が、ゆっくりと、立ち上がった。
体が、光の粒子に、変わり始めていた。
塔との繋がりが、失われたことで、男の存在も、消えていく。
「最後に、名前を」
俺は、言った。
男が、少し、考えた。
「……忘れた」
それから、わずかに、目を細めた。
「でも、思い出す必要は、ない」
男の体が、少しずつ、透けていく。
俺たちは、もう、引き止められなかった。
翔が、男に向かって、短く、礼をした。
葵が、両手を、胸の前で、合わせた。
美咲も、静かに、頭を、下げた。
男が、四人を、見た。
何かを、言いたそうで。
でも、時間が、なかった。
男の口が、動いた。
はっきりとした言葉には、ならなかった。
でも——「ありがとう」のように、見えた。
あるいは——別の、何か、だったかもしれない。
塔の崩壊が、激しくなっていた。
俺たちは、もう、ここを離れなければ、ならなかった。
男の最後の一言が、耳に、残った。
「忘れるな」。
忘れない。
遥斗の顔を、仲間の顔を、そして——今、この、男の顔を。
俺は、男に向かって、もう一度、頭を、下げた。
ありがとう、という意味を、込めて。
男の体が、ほぼ、光の粒子に、変わっていた。
その中で、男の目だけが、まだ、俺を、見ていた。
穏やかに。
満足そうに。




