第89話:『斬る』
広間の空気が、変わっていた。
先ほどまでの、殺気が、消えている。
戦闘の構えが、解かれている。
男は、静かに、立っていた。
俺は、剣の柄を、握り直した。
全身の、傷が、痛む。
反復20,000回を超えた身体が、軋む。
指が、震えている。
それでも——俺は、剣を、構えた。
「あなたを、倒すんじゃない」
俺は、静かに、言った。
「その鎖を、斬る」
男の目が——初めて、揺らいだ。
これまで、ほとんど感情を見せなかった目。
その奥で、何かが、動いた。
驚き。
信じられないという色。
そして——ほんのわずかな、希望のような、光。
「——」
男が、小さく、声を漏らした。
言葉には、ならない。
でも、その声に、感情が、宿っていた。
翔が、倒れたまま、俺を見た。
「蓮、本当に……見えないけど、鎖があるんだな」
「ある」
俺は、短く答えた。
「時間加速斬を使った時だけ、見える。漆黒の、太い鎖が、何本も、男の体に、巻きついてる」
葵が、震える声で言った。
「それを、斬れば——」
「番人が、解放される」
美咲が、静かに、続けた。
「そして、塔との繋がりも、切れる」
俺は、頷いた。
「そのはずだ」
男が、じっと、俺を見ている。
何かを、言いたそうで。
でも、言葉が、出てこない。
「あんたが」
俺は、男に、直接、語りかけた。
「何百年も、ここに、縛られていたなら——」
声が、少し、震えた。
「俺が、終わりにする」
男が、長い、沈黙に、沈んだ。
そして——剣を、完全に、鞘に収めた。
刀身が、鞘に、収まる音。
小さな、でも、決定的な音だった。
男の両手が、下がった。
抵抗しない、という意思表示。
受け入れる、という意思表示。
俺は、剣を、握り直した。
「時間加速斬で、鎖が見える。その間に、斬る」
「大丈夫か、蓮」
翔が、心配そうに聞いた。
「反復20,000回を、超えてる。持続は、伸びてる。ただ——」
俺は、剣の刃を、見た。
無数の、細かい傷。
反復20,000回の負荷で、刃が、すり減っている。
「剣が、持つかだ」
翔が、口を真一文字に結んだ。
「砕けたら、どうする」
「砕けた時は、考える」
俺は、短く答えた。
葵が、泉の水を、汲んできて、俺の唇に運んでくれた。
冷たい水が、喉を、潤した。
少しだけ、体の力が、戻ってきた。
美咲が、弓を背負った。
矢は、もう、ない。
でも、弓は、俺の支えになるように、近くに、置かれていた。
四人が、俺の周りに、集まった。
「蓮」
翔が、俺の肩に、手を置いた。
「俺たち、見てる」
「ああ」
「無理だったら、一度、引いて、立て直せばいい」
「分かった」
でも——引く気は、なかった。
ここで、やり切る。
男を、解放する。
それが、今、俺にできる、最大のことだった。
俺は、男に、向き直った。
男は、静かに、目を閉じた。
斬ってくれ、と、言っているような、静けさだった。
俺は、剣を、構えた。
「時間加速斬」
世界が、スローモーションになる。
男の体に、巻きついた漆黒の鎖が、はっきりと、見えた。
何本も、何本も。
首に。
両腕に。
胴体に。
両足に。
鎖の先は、壁に、伸びていた。
壁の奥の、何かと、繋がっていた。
俺は、剣を、振り上げた。
男が、目を、閉じた。
抵抗しない、と、体中で、言っていた。
翔が、葵が、美咲が、固唾を呑んで、見守っている。
塔が、激しく、揺れている。
壁が、軋んでいる。
床が、震えている。
でも、俺の手は、震えていなかった。
迷いは、ない。
覚悟は、決まっている。
「一本目——」
最初の鎖に、向かって、振り下ろした。
工場のライン作業で、培った、あの感覚。
同じ動作を、無数に、繰り返した、あの反復。
それが、今——人を救うために、振るわれる。
剣の切っ先が、鎖に、触れる瞬間、俺は、確信した。
届く。
この一撃は、届く。
鎖に、剣が、触れた瞬間——。
ガギィィン、という音が、広間に、響いた。
最初の鎖に、亀裂が、走った。
男が、わずかに、身を、震わせた。
痛みか、あるいは、何か別の感覚か——。
俺は、構わず、剣を、振るい続けた。




