第78話:五度目の全滅
八十五階層に入った瞬間——空気が、変わった。
呼吸が、薄くなる。
肺が、酸素を求めて、一度だけ、大きく膨らんだ。
広い、広い広間。
天井が見えないほど高く、壁は漆黒。
中央に——存在がいた。
人型ですらない。
ただの、漆黒の塊。
輪郭が、時々、揺らいで、消える。
【虚無の君主 Lv48】
気配だけで、圧倒された。
「これは……」
翔が、槍を構えたまま、動けなかった。
葵が、後退する。
「攻撃する前から、怖い……」
美咲は、矢を番えていたが、手が震えていた。
俺は——前に出た。
反復9,700回。
五周目の、俺の全力。
「時間加速斬」
世界が、スローモーションになる。
その中で、君主の輪郭を、見極める。
——ない。
輪郭が、見えない。
どこを斬れば、ダメージが入るのか、判断できない。
それでも、剣を振るった。
切っ先が、君主の体に、触れる。
——体が、こちらに触れてくる。
冷たい。
侵食者とは、違う冷たさ。
スキルを削られるのではない。
存在そのものが、薄れていく感覚。
「——!」
俺が、後退する。
自分の体を、確認する。
指先が、わずかに透けていた。
「存在を、消される……」
呟いた。
翔が、絶句する。
「冗談だろ」
葵が、魔法を唱える。
「氷結連鎖」
氷が、君主を包む——前に、君主が消える。
氷だけが、空中に散る。
美咲が、矢を放つ。
君主は、移動していた。
矢が、空を切る。
存在そのものが、位置を持たない。
「どうやって倒すんだ、これ」
翔が、叫ぶ。
「分からない」
俺は、歯を食いしばった。
「今は、分からない」
君主が、翔に迫る。
翔の体に、君主が触れる。
翔の連続突きのスキルが、消える。
「連続突きが、使えない——」
翔の顔が、蒼白になった。
葵に、君主が迫る。
氷結連鎖が、消える。
「え、え、魔法が」
美咲に、君主が迫る。
炎矢乱舞の矢が、消えていく。
俺に、君主が迫る。
時間加速斬が——。
消えた。
反復9,700回の、俺の切り札。
それが、一瞬で、手の届かない場所に行った。
「なんで……」
力が、抜ける。
四人が、次々とスキルを失っていく。
「逃げるぞ」
俺が、叫んだ。
だが——遅い。
君主は、逃げる俺たちに、追いすがってきた。
漆黒の体が、俺たちを包む。
全ての能力が、削られていく。
剣が、軽くなる。
槍が、軽くなる。
杖が、冷たくなる。
矢筒が、空になる。
最後の、一つが、削がれた瞬間。
俺の意識が、遠のいた。
「遥斗……」
声に、出した。
また、会えない。
その悔しさだけが、最後に、残った。
——。
三階層の、休息の間。
目を開けた瞬間、冷たい石の床の感触があった。
【反復回数:約11,000回。ループ6回目】
俺は、ゆっくり、立ち上がった。
翔が、葵が、美咲が、それぞれ、起き上がる。
誰も、何が起きたか、覚えていない。
——俺だけが、全てを、覚えている。
壁には、俺が刻んだメッセージが、五つ並んでいた。
一周目。
二周目。
三周目。
四周目。
五周目。
全て、俺自身が、過去に刻んだもの。
俺は、壁に、新たなメッセージを刻んだ。
【5周目全滅。85階層の虚無の君主。スキルを消される。突破口なし。──朝倉蓮】
刻み終わって——拳を、壁に、強く打ちつけた。
石の感触が、拳に返ってきた。
「……また、考える」
呟いた。
「また、反復する」
ループは、六回目だ。
翔も、葵も、美咲も、また、初期状態に戻っている。
俺だけが、全てを背負う。
男の「あったかもしれない」が、胸に重く残っていた。
俺も、いつか、そうなるのか。
何百周もループすれば、記憶が薄れるのか。
その恐怖を、胸の奥に、押し込めた。
今は、考えない。
立ち上がる。
剣を、鞘に戻した。
六周目の塔攻略が、始まった。
翔を、起こす。
葵を、起こす。
美咲は、先に起きている。
どれも、既視感のある、光景。
でも、今回の俺は、以前の俺より、強い。
反復は、裏切らない。
次こそ、君主を、突破する。




