第77話:揺らぎ
八十三階層クリア後の、螺旋階段。
四人で、ゆっくりと登っていた。
口数が、少ない。
翔も、葵も、美咲も、俺も——ずっと、あの男のことを考えていた。
「あったかもしれない」。
あの一言が、それぞれの胸に、引っかかっている。
翔が、ぽつりと呟いた。
「帰る理由が、あったかもしれない——って、今はもう、ないってことか?」
誰も、答えなかった。
だが、翔の言葉は、正確だった。
「あった」なら、今もあるはず。
「ない」なら、そう言うはず。
「あったかもしれない」は、「過去にはあったかもしれないけれど、今はもう分からない」という意味に、近い。
記憶が、薄れている。
帰る理由が、霞んでいる。
それでも、ゼロではないかもしれない。
——そういう、状態。
葵が、立ち止まった。
「……なんだか、悲しくなってきました」
「何が」
翔が、振り返る。
「だって、あの人、忘れちゃったってことですよね。帰る理由を、帰る場所を、待ってた人を」
葵の声が、震えていた。
「それって、すごく、辛いことだと思います」
美咲が、静かに言った。
「辛い、というより——残酷ね」
「残酷?」
「帰る理由が、自分の中にあったはずなのに、それを失ったまま、ずっとここにいる」
美咲の言葉が、広い階段に、ゆっくりと響いた。
俺は——何も、言えなかった。
自分の胸の、最も深い場所に、その可能性があった。
ループを繰り返すうちに、何かを忘れていく。
記憶の廻廊の、あの挑戦者のように。
男の、あの姿のように。
俺も、いつか——そうなるかもしれない。
「蓮」
翔が、俺の肩を叩いた。
顔は、笑っていた。
でも、目は、真剣だった。
「お前は、ああはならない」
「……」
「俺たちが、ああはさせない」
翔の言葉に、葵と美咲が、同時に頷いた。
俺は、少しだけ、目を伏せた。
何も、言えなかった。
言葉にしたら、何かが、零れてしまいそうだった。
「行こう」
かろうじて、そう言った。
四人で、また階段を登り始める。
足取りは、さっきより、少しだけ重かった。
だが、四人の距離は、むしろ近くなっていた。
翔が、隣を歩きながら、また口を開いた。
「俺たちのことを、何度も助けてくれてるのにな」
「……ああ」
「名前も、教えてくれない。理由も、言わない。ただ、出てきて、助けて、消える」
「うん」
「なんでだろうな」
俺は、少し、黙った。
それから、静かに答えた。
「たぶん」
「ん?」
「——自分を、思い出してるんじゃないか」
翔が、目を見開く。
「自分を?」
「俺たちを見て、自分が失ったものを、思い出してる気がする」
翔が、ゆっくり頷いた。
「……そうか」
それ以上、言葉はなかった。
でも、その推測が、一番近いように思えた。
男は、俺たちを見ている。
四人で戦い、助け合い、笑い、泣く姿を。
その姿の中に——昔の自分を、見ている。
何百年前か、何千年前か——忘れた自分を。
葵が、小さな声で言った。
「会うたびに、少しだけ、人間らしくなってる気がします」
「気のせいじゃないと思うわ」
美咲が、静かに答えた。
俺は、前を向いた。
階段は、まだ続く。
男のことを、考えながら、登り続ける。
いつか——俺たちが、あの男の「帰る理由」になれるのだろうか。
そんな、突飛な考えが、頭をよぎった。
声には、しなかった。
でも、胸の奥に、その希望が、小さく灯った。
男に、帰る場所を、思い出させたい。
あるいは——新しい、帰る場所を、作ってあげたい。
馬鹿げた、考えだと思った。
でも、今の俺には、その考えが、温かかった。
四人で、もう一段、階段を登った。
男の背中を、思い出しながら。
八十五階層が、目前だった。
塔の脈動が、一歩ごとに、強くなる。
壁の漆黒の模様が、広がっていく。
でも、俺たちは、止まらなかった。
男のことを、考えながらも、前に、進んだ。
それしか、できなかった。




