第73話:80階層・時の螺旋
八十階層に入った瞬間——視界が、歪んだ。
階段を、登り切った。
広がる空間は、通常の階層とは明らかに違う。
広間の壁が、透けている。
床が、微かに波打っている。
空気が、色を持っている。
葵が、頭を振った。
「うっ……視界が、変」
翔が、片目を押さえる。
「なんだ、これ。酔いそうだ」
美咲が、弓を構えたまま、小さく呟いた。
「時間が、歪んでいる気がする」
一歩、歩いた瞬間。
視界に、別の光景が重なった。
工場の、作業場。
蛍光灯の、白い光。
油と金属の、混じった匂い。
ライン作業の、単調な音。
俺が、立っている。
いつもの作業服。
いつもの、工場。
——召喚の夜だ。
召喚される、直前。
工場から帰ろうとした瞬間。
空から、光が差し込んだ瞬間。
そして——。
カーテンの向こうで、眠っている遥斗。
朝、学校に行く前に、準備をさせるために起こす。
でも、召喚の夜は——起こす前に、俺が消えた。
遥斗は、朝、一人で目を覚ましたんだろう。
俺のいないキッチン。
俺のいないベッド。
誰もいない、家。
最後に、俺が見た、遥斗の姿。
幻が、鮮明に、俺の目の前に広がっていた。
「蓮、大丈夫か?」
翔の声が、どこか遠くから聞こえる。
俺は、動けなかった。
遥斗の寝顔が、目の前にある。
手を、伸ばした。
触れない。
幻は、ただ、映像でしかない。
「兄ちゃん」
声が、聞こえた。
遥斗の声。
「兄ちゃん、いつ帰ってくるの?」
眠りながら、遥斗が、呟いた。
夢を、見ている遥斗。
俺を、待っている遥斗。
俺の胸が、きゅっと締め付けられた。
「……帰る」
俺が、声に、出した。
「必ず、帰る」
幻の遥斗には、聞こえていない。
当たり前だ。
ただの、幻なのだから。
それでも、言わずにはいられなかった。
「待ってろ、遥斗」
声が、震えた。
「今、迎えに行くから」
——幻が、少しずつ、薄れていく。
遥斗の姿が、透け始める。
工場の作業場が、消えていく。
現実の、八十階層の床が、戻ってくる。
俺は、息を吐いた。
胸の奥が、熱くなっていた。
「蓮」
翔が、俺の肩を叩いた。
何度、その手が、俺を支えてきただろう。
この塔で。
五周にわたって。
「大丈夫か」
俺は、振り返った。
翔も、葵も、美咲も、それぞれ、何かを見ていたような顔をしていた。
「……何を、見た?」
俺が、聞いた。
翔が、少し黙ってから、答えた。
「実家の、母さんだ」
「……」
「俺、塔で死んだら、母さんに会えなくなるんだよな」
翔が、短く笑った。
「改めて、気づいた」
葵が、静かに言った。
「私は、父の顔でした」
「親と、仲悪かったんじゃないか?」
翔が、聞く。
「そうです。だから、見たかったんです」
葵が、少し笑った。
「喧嘩したまま、別れましたから。帰ったら、もう一度ちゃんと話したい」
美咲は、何も言わなかった。
でも、美咲の目は、少し赤くなっていた。
俺は、深呼吸をした。
「この階層、きついな」
「ああ」
翔が、頷いた。
「でも——いい階層だ」
葵が、呟いた。
「帰る理由を、もう一度、思い出させてくれた」
美咲が、小さく、頷いた。
俺も、頷いた。
遥斗の寝顔を、もう一度、胸に刻んだ。
「行こう」
俺が、先を進んだ。
八十階層の通路を、四人で、歩いていく。
幻が、時々、視界に重なる。
それでも、足を止めない。
塔の脈動が、少しずつ、弱まっている気がした。
まるで、俺たちが帰る理由を思い出すほど、塔の力が、薄れていくように。
「もうすぐだ」
俺が、呟いた。
頂上が、近づいていた。
遥斗の、寝顔。
俺が最後に見た、大切な顔。
あの顔に、また会う。
それだけを、心の中で、繰り返した。
塔の脈動は、以前より弱まっていた。
俺たちが、ここまで来たことを、塔が認めたのか。
あるいは、塔そのものが、何かを失い始めているのか。
分からない。
でも、一歩一歩、確実に前に進んでいた。
それだけは、確かだった。




