第62話:変わらないもの
四周目、五十階層付近の休息の間。
四人で、泉の水を飲んでいた。
翔が、脚を伸ばしながら、ふと俺の方を向いた。
「なあ蓮」
「ん?」
「お前って、昔から単調な仕事、得意だったのか?」
他愛のない問いだった。
一周目でも、三周目でも、同じように聞かれた。
俺は、少し黙ってから、答えた。
「得意……っていうか、苦にならなかった」
泉の水面を見ながら、続けた。
「工場のライン作業でさ。毎日同じ部品を、同じ手順で組み立てる」
翔が、頷く。
「他の人間は、大体一年でやめていった」
「だろうな、俺も無理だわ」
翔が、笑う。
「でも俺は、苦にならなかった」
「なんで?」
「遥斗のためだったから」
俺は、静かに言った。
「稼がなきゃいけなかった。弟を育てなきゃいけなかった。単調でも、辛くても、続ける理由があった」
葵が、水を掬いながら呟いた。
「帰る理由があると、どんなことでも続けられますよね」
優しい声。
葵は、いつも、こういう時に優しい言葉を言う。
一周目でも。
二周目でも。
三周目でも。
そして、今も。
俺は、頷いた。
「ああ」
美咲が、弓を膝の上に置いたまま、静かに口を開いた。
「帰る理由があるかどうかで、人間の強さは変わる」
自分に言い聞かせるような声だった。
「仕事でも、戦いでも。理由がない人間は、どこかで折れる」
翔が、美咲の方を向いた。
いつもなら、美咲は、自分のことを語らない。
警察官だった、という事実だけを、小出しにする程度。
でも、今回は——。
少し、違った。
「美咲さんの理由は?」
美咲が、少し黙る。
それから、短く答えた。
「……守れなかった人の分、かもしれないわね」
警察官時代のこと。
記憶の廻廊で、俺だけが垣間見た過去。
美咲は、そのことを、直接は言わない。
でも、この場では、少しだけ、匂わせた。
葵が、口を開く。
「私は、帰ったらもう一度デザインをしたいです」
「ほう」
「塔で見たもの、全部描きたい。空中回廊、記憶の廻廊、塔の鼓動。現実には絶対にない景色ばかりです」
美咲が、珍しく口の端を上げた。
「それは見てみたい」
翔が、頷く。
「俺も、帰ったら友達に会いたい」
「友達?」
「ああ、大学時代の。ずっと連絡取ってなかった奴」
翔が、少し目を伏せた。
記憶の廻廊で、翔が見た過去。
「見捨ててしまった友人」への罪悪感。
俺は、その過去を知っていた。
翔自身が、かつて話してくれたから。
——そう。ループ前の、あの時。
だが、今の翔は、俺に話した記憶がない。
それでも、翔は、同じことを言う。
一周目でも、三周目でも、今も。
翔という人間は、ループで変わらない。
「俺は」
俺が、口を開いた。
「遥斗の顔を、見たい」
三人が、俺を見る。
「朝、起こす顔。学校に送り出す顔。帰ってきて『おかえり』って言う顔」
「蓮」
葵が、少し声を震わせた。
「全部、もう一度見たい」
俺は、泉の水を、もう一度掬った。
冷たい水が、両手に溜まる。
工場の、朝。
遥斗を起こす前に、俺は水を飲む。
そのルーティンが、もう何年も続いていた。
——この水も、あの水も、同じ味がする気がした。
錯覚かもしれない。
でも、今は、そう感じたかった。
「何周ループしても、この気持ちは、変わらない」
口に、出してしまった。
翔が、一瞬、固まる。
「ループ?」
「……いや」
俺が、誤魔化す。
「何年、塔にいても、って意味だ」
「ああ、そうか」
翔が、軽く頷く。
深くは、突っ込まない。
四周目の翔は、まだ俺のループを知らない。
この後、また告白することになるだろう。
でも——今は、まだいい。
今は、この、変わらない一瞬を、胸に刻んでおきたい。
遥斗への想い。
仲間への信頼。
何周しても、薄れない。
壁の記録の挑戦者は、頂上で「誰の顔も思い浮かべられなかった」。
でも、俺は——。
今、四人の顔を、はっきりと見ている。
翔も、葵も、美咲も、そして遥斗も。
「俺は、まだ俺だ」
声にはしなかった。
だが、胸の奥で、確信した。
四人で、階段を登り始めた。
次は、五十五階層の侵食者。
三周目で詰まった、あいつだ。




