第60話:三度目の全滅
五十五階層の空気は、異質だった。
階段を登り切った瞬間、息が詰まった。
広い広間。
天井も壁も、漆黒の霧に覆われている。
光が、吸い込まれていくような感覚。
中央に——存在がある。
形が、定まらない。
人型のようで、獣のようで、ただの塊のようでもある。
漆黒の霧が、常に形を変えている。
【深淵の侵食者 Lv35】
「なんだ、これ……」
翔が、槍を構えたまま、低く呟いた。
「形が見えない」
葵が、震える声で続ける。
「どこを攻撃すれば……」
俺は、剣を構えた。
「とりあえず、様子を見よう」
最初の一撃を、試しに振るう。
時間加速斬。
世界がスローモーションになる中、俺が斬り込む。
切っ先が、漆黒の霧を切り裂いた——はずだった。
だが、手応えがない。
霧が、避けることもなく、切られることもなく、ただそこに漂っている。
「通じない……?」
俺が、後退する。
その瞬間——。
侵食者が、動いた。
一瞬で、俺の目の前に迫る。
反応できない。
漆黒の手が、俺の胸に触れた。
冷たかった。
冷たいのに、体の奥から、何かが削られる感覚。
「——!」
胸の奥が、軽くなる。
そして——頭の中が、何かを失った感覚がした。
「時間加速斬」
声に出す。
発動——しない。
「嘘だろ」
俺が、呟いた。
「時間加速斬が、使えない……?」
侵食者が、俺から離れる。
その漆黒の体の中に——俺の記憶の一部が、吸い込まれていった。
頭の中で、何かが欠けた感覚があった。
時間加速斬。
俺が、何千回も反復したスキル。
それが、手の届かない場所に、持ち去られていく。
「——スキルが、消えた?」
自分の声が、どこか他人事に聞こえた。
ありえない。
反復で積み上げたスキルが、一瞬で奪われる。
そんなことが、起こるのか。
「スキルを……消された?」
翔が、顔を蒼白にする。
「そんなことがあるのか」
「『氷結連鎖』!」
葵が、魔法を唱える。
侵食者が、葵に迫る。
霧の手が、葵の胸に触れる。
葵が、膝をつく。
「『氷結連鎖』……?」
もう一度、唱える。
発動しない。
「嘘……」
葵が、絶望の声を漏らす。
「『炎矢乱舞』!」
美咲が、矢を射る。
全弾、霧に吸い込まれる。
手応えなし。
侵食者が、美咲に迫る。
霧の手が、触れる。
美咲の矢筒から、矢が一本、消えた。
「……矢が、消えた」
美咲が、絞り出すように言った。
「スキルだけじゃない。能力そのものが削られてる」
翔が、連続突きを放つ。
手応え、なし。
侵食者が、翔に迫る。
霧が触れる。
翔の槍が、少しだけ軽くなった。
「俺の連続突きも……」
翔が、その場に膝をついた。
四人が、次々とスキルを失っていく。
戦闘を、続けられない。
「逃げるぞ」
俺が叫んだ。
「階段まで戻れ」
四人で、背を向けて走る。
侵食者は、追ってこなかった。
ただ、漆黒の霧の中で、こちらを見ているような気配だけがあった。
階段に、辿り着く——その前に。
霧が、一瞬で俺たちを追い越した。
前に、回り込まれた。
四人が、囲まれる。
霧の手が、次々と触れてくる。
俺の剣の感覚が、薄れていく。
翔の槍が、軽くなる。
葵の杖が、冷たくなる。
美咲の矢筒が、空になっていく。
全ての、能力。
全ての、スキル。
削られて、消えていく。
——ああ。
俺は、膝をついた。
視界が、暗くなっていく。
「ごめん」
声に出して、呟いた。
「また、全滅だ」
翔が、葵が、美咲が、次々と倒れていく。
最後に、俺の意識が、遠のいた。
——。
目を開けると、三階層の休息の間だった。
泉の、冷たい水音。
壁に刻まれた、俺自身のメッセージが、三つ並んでいる。
【反復回数:約7,000回。ループ4回目】
俺は、ゆっくり立ち上がった。
翔と葵と美咲は、何も覚えていない。
俺だけが、全てを覚えている。
四度目の、やり直し。
壁に、新たなメッセージを刻む。
【3周目全滅。55階層の侵食者に注意。スキルを消される。- 朝倉蓮】
刻み終わって、拳で壁を一度、殴った。
「また、やり直す」
声にはしなかった。
だが、胸の奥で、そう決めた。




