第58話:謎の男、三度目
五十階層クリア後の、休息の間。
広い、石造りの部屋。
中央に、澄んだ泉。
四人で泉の水を飲みながら、傷を癒していた。
翔が、泉の縁に座り込んで脚を伸ばした。
「あー、疲れた」
葵が、水を両手で掬って顔を洗う。
美咲は、弓の手入れをしている。
俺は、剣を膝の上に置いて、壁に背を預けていた。
——そのとき、気配に気づいた。
部屋の入口近く。
壁に背を預けて、静かに立っている人影。
銀髪の男だった。
傷一つない。
いつもの、あの男。
「……また、いる」
翔が、低く呟いた。
葵が、顔を上げる。
美咲は、弓の手入れを続けたまま、男を視界の端に捉えていた。
俺は、剣を脇に置いて、立ち上がった。
男は、こちらを見ていなかった。
ただ、壁に背を預けて、目を伏せている。
近づいていく。
「あなたは」
俺が、口を開いた。
「ずっと、ここにいるんですか」
男は、答えない。
俺は、もう一歩、近づいた。
「この塔に、どれくらいいるんですか」
沈黙。
距離は、二メートルほど。
これだけ近づいても、男からは、何の気配も感じない。
息遣いが、聞こえない。
心臓の音も、ない気がした。
まるで——生きている人間では、ない。
でも、男は、確かにそこにいる。
壁に背を預けて、静かに立っている。
その違和感が、ずっと、俺の胸に残っていた。
「答えてくれなくても、いいです」
俺は、続けた。
「でも、一つだけ」
男は、瞼を閉じたまま、微動だにしない。
「帰ろうとは、思わないんですか」
この問いだけは——訊きたかった。
ずっと、訊きたかった問いだ。
男の瞼が、ほんの少しだけ動いた。
それから——目を開けた。
俺を、見ない。
広間の壁の、別の一点を見ている。
「……」
男は、答えなかった。
ただ、壁に背を預けたまま、静かに立っていた。
否定しない。
肯定もしない。
その沈黙が、何かを語っている気がした。
やがて、男は壁から背を離した。
踵を返し、休息の間を出ていく。
足音は、しない。
扉が、静かに閉まった。
俺は、その扉をしばらく見つめた。
——「帰ろうとは思わないのか」。
その問いに、男は否定で返さなかった。
肯定でも、返さなかった。
つまり、どちらとも、言わない。
あるいは、どちらとも、言えない。
どちらかなのか。
両方なのか。
俺には、判断がつかなかった。
翔が、後ろから声をかけてくる。
「蓮、何か聞けたのか?」
俺は、振り返った。
「何も」
「何も?」
「答えてくれなかった」
翔が、肩をすくめる。
「愛想のない奴だな」
葵が、首を傾げる。
「でも、なんだか……さっきの沈黙、普通じゃなかった気がします」
葵が、俺の顔を見る。
「蓮さん、何を聞いたんですか?」
俺は、少し黙った。
それから、短く答えた。
「『帰ろうとは思わないのか』って」
葵が、目を見開いた。
美咲が、弓の手入れの手を止めた。
翔が「ああ……」と、低く呟いた。
「それ、答えないよな。あいつ」
四人で、しばらく沈黙した。
俺は、もう一度、男が消えた扉を見た。
答えなかった、という事実が、一つの答えだった。
「帰ろうとは思わない」。
それを、男は否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ——目を伏せて、歩いていった。
その背中が、妙に、こちらに残った。
「……行こう」
俺は、仲間の方へ戻った。
剣を、腰に戻す。
翔が、立ち上がる。
「次は、51階層か」
「ああ」
葵が、杖を構え直した。
美咲が、弓を背負った。
四人で、部屋を出る。
階段が、上に伸びていた。
俺は、登りながら、ずっと考えていた。
あの男は——帰れないのか。
それとも、帰らないのか。
どちらにしても。
答えは、まだ出なかった。
でも、一つだけ、感じたことがある。
あの男は、俺の問いを、嫌がらなかった。
面倒がらなかった。
ただ、答えを持っていない、という風だった。
あるいは、答えを持っていても、口にできない、という風だった。
そこに——男の、人間らしさの名残が、あった気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そう思いたかった。




